2011年10月10日月曜日

「過疎地を遊んじゃう!」島おこし──佐久島


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 渥美半島と知多半島に囲まれる海域は三河湾とされ、その湾口にあたる伊良湖(いらご)岬~師崎(もろざき)間はフェリーで結ばれています。
 そのフェリー航路から程近くに、三河湾にある3つの有人島である、篠島(しのじま)、日間賀島(ひまかじま)と佐久島(さくしま)が見え、付近は「東海の松島」とされる景観で人気を集めます。

 太古の時代から3島とも同じように人が定住し、古代遺跡や古墳(佐久島内に40 余り点在する)が残される、暮らしやすい地域だったことがうかがえます。
 「名古屋から一番近い島」のふれ込みで、多くの観光客を集める日間賀島や篠島は南知多町に属し、連絡船発着の師崎近くまで高速道路が整備されています。
 その2島から少し湾奧に位置する佐久島は一色町に属しましたが、2011年4月西尾市に編入されます。
 その自治体区分が島の命運を左右したかのように、この島では島民の流出から過疎・高齢化が進んでしまいます。
 そこに歯止めをかけるべく、1996年から国や県の後押しを受け、「生活と芸術」をテーマにした現代美術等による島おこしが始まります。


佐久島(Map)


 近ごろはやりの「アートで島おこし」に取り組む島、との知識しか持たずに定期船に乗り込むと、出発間近とはいえ定員100名程度の座席はほぼ満席の盛況ぶりに「そんなに人気のある島なんだ」とビックリ。
 その日は小学校の校外授業の団体がいたためですが、休日には結構人出のある島のようです。
 そうなると「アートで島おこし」が成功した理由を探ることがテーマとなります。(上写真は黒板が外れた民家の壁)


 島には2つの港があり、船が最初に立ち寄る西港に降り立つと目を引くのが、コールタールで塗られた黒壁が続く家並で、江戸時代に弁財(千石)船の海運業で栄えた港町の風情が残されており、意図的でも「残されてよかった」という安堵感があります。
 その意図には、残す物は可能なだけ以前の姿で残し、開発すべきは島民の利便性と発展のためにバランスを考えて作るべき、との方針が込められていて、それが実践される姿を目にした時、ビジョンの確かさが伝わってきます。

 あれだけの観光客が降り立つのだから(100人程度で驚くなと言われそうですが、普段の離島訪問では10人いれば多い方)、それなりの食事・宿泊等のサービス提供施設が必要になりますが、この西港付近には見当たりません。
 その答えは、反対側の東港付近にありました。
 島の玄関口は来客を静かに迎え入れ、一通り遊んでもらってから持てなしをするとでも言うのか、実にうまい演出と感じられます。

 現在の主な産業は、圧倒的に多い漁業(巨大アサリ漁?)に次いで観光サービス業とされますが、実際に歩いてみるとそのバランスのよさが心地よさを与えてくれると、納得しきりです。


 ここは「佐久島空家計画/大葉邸」とされる展示で、空き家に人を呼び戻そうという趣旨はなく、空き家で遊んじゃおう! という提案のようです。
 そこに込められた「過疎化で人がいないんだから仕方ないじゃん!」と開き直る姿勢が目新しく感じられ、「また遊びに来ちゃおうかな〜」と楽しげな気持ちにさせられる不思議な空間です。

 それだけでは島おこしになりませんが、都市計画ならぬ集落計画を考えながら、別の場所で物件の提供を進めています。
 賃貸可能な家屋であれば「120年以上(推定)」でも契約は成立していますし、土地の賃貸や売買も準備されています。
 また、2012年春オープン予定で、新築の居住可能(当初は5年間までの予定)な貸別荘的な物件も準備中です。
 その施設も島の景観に配慮した計画的な開発なので、前を歩いたのに「さっきの場所が?」という、島の風景になじんだものです。
 ここまでやらなきゃいけないというか、そこまで本気で取り組まないと島の過疎化は止められない状況なんでしょうね。


 上写真もアート作品かと思ったら他の場所でも見かけたので、島のアート? かも知れません。
 瓦を積むだけなので、これならオレにもできるとまねたのかも知れませんが、だとしてもそれはちゃんとした島のアートといえるでしょう。

 右写真は「おひるねハウス」と名づけられた作品なので、昼寝はせずとも横になりまったりする人が多いので、なかなか人影がなくなりません。
 海辺で横になる機会を与えてもらえると、誘われる人は結構多いようです。
 仕切られたスペースは、落ち着ける空間の提供が目的だったのでしょうが、次から次に人がやって来ては必ずのぞき込みますから、決して落ち着ける空間ではありません……
 他にも、のぞいて遊ぶ「ふしぎワールド」や、所々にベンチが設置してある「すわるとこプロジェクト」など、参加型のアートが違和感なく配置され「まったり」とさせてくれるので、この島の空気にマッチした相乗効果を生みだしています。


 この島は、東京ディズニーランド約3個分の面積がありますが、最高標高は38mなので、とてもなだらかな地形になっており、レンタル自転車で回るには最適です(寄り道し過ぎて時間が足りなくなったわたしにも必要でした)。

 平坦な島の印象から沖縄の島を想起しますが、他にも似てると感じる要素が点在します。
 上写真は、海岸脇に残される石垣古墳から浜辺に降りた様子ですが、入江の静かな波打ち際からは西表島を思い浮かべたりします。
 また右写真は集落内の商店ですが、この色合いからは映画『ナビィの恋』の舞台である粟国島の大濱商店を想起したりします(波照間島にも色鮮やかなお店の記憶が残ります)。


 上写真は民家の庭先ですが、ここなんぞはまるで沖縄の民家? の雰囲気があります。
 平坦な土地は利用しやすい反面、水源が乏しいので栽培できる作物が限られますが、沖縄の離島と違い本土に近いこの島が恵まれているのは、導水管で上水道が供給されることです。
 1961年完成の愛知用水(木曽川から尾張丘陵部・知多半島にかけて上水道を供給する用水)により、周辺では生活や、農・工業生産性向上の恩恵を受けました。
 特に知多半島南部、日間賀島・篠島・佐久島の人々に感謝された、とあるのも当然で、「島だって水さえあれば色んなことができるんだぞ」という取り組みが実を結び始めています。


八劔(はっけん)神社(Map)


 しめ縄が低く垂れ下がっているのは本来の姿なのだろうか?
 でも、そこを通るには腰をかがめてくぐる必要があるため、必然的にお辞儀をする格好になるし、鳥居に結ばれたものより身近に意識できるので、きっと意図があるだろうと思いながらお参りします。

 社伝によると、1024年頃天台宗薬師寺の鎮守として勧進されたとあります。
 元は天台宗のお寺があったようですが、現在では下述のように弘法大師(空海)が重んじられることから、真言宗が広まり薬師寺は姿を消したのかも知れません。
 ここの社には、八剱社本殿と神明社(しんめいしゃ)本殿が並んで鎮座しています。
 もともと西区に祭られていた神明社が江戸末期頃、東区の八剱神社に合殿として祭られたそうで、合祀(ごうし:合体)ではなく2つ並べる手もあるのかと、島という限られた土地で円満に暮らすための知恵が感じられます。


 島の東側に富士山とされる小高い丘があり、その一帯にこぢんまりとしたレンガ造りのお堂が点在しています。
 その一帯は富士山弘法とされ、四国八十八箇所霊場めぐりのような島内霊場になっています。
 その森の中に、弘法大師にゆかりの深い小豆島等で目にした、石仏が積み上げられた供養等がひっそりと佇んでいます。
 しかし多くのお堂は朽ち果てており、過疎化と共に手入れが届かなくなった様子が見て取れます。
 その立て直しには、まずは人を呼び寄せること、そして文化を再興させるというビジョンになるのでしょう。
 でも、呼び寄せた新たな住民たちは、これまでとは違う文化を構築するかも知れませんが、島に新たな歴史が刻まれ、存続していくことが島民の願いではないかと思います。


一色町(Map)

 佐久島への定期船は、「一色町さかな広場」(鮮魚水産加工品販売店や食堂がある)付近から出ているので、帰りに立ち寄り念願のうなぎをいただきました。
 食べ慣れている関東とは違い蒸さずに焼くため、身の歯ごたえを「かんで味合う」(力はいりませんが)おいしさがあります(久しぶりの国産うなぎに興奮気味?)。
 ですが、せっかくの国産もタレが甘過ぎてわたしには「うわっ、もったいない……」の印象。
 名古屋風(中京風)タレの説明では、「 関東(甘)・関西(より甘)のタレはサラッとしている」の表現に加え、しょう油はたまり醤油でみりんと氷砂糖で「強いコクを出す」とありますから、食す前に読んだら引いてしまいそうです。
 再チャレンジの際には「白焼き」でいこうと思っています……


 うなぎの名産地といえば「浜松!」と即答するわたしは、古い教科書で学んだことがすぐバレてしまいます。
 それは「うなぎパイ」のせいにしてもいいくらいすり込まれていますし、「夜のお菓子」のコピーには時代を超えるインパクトがあります。

 近ごろの県別養殖生産高では、鹿児島、愛知、宮崎という順位(静岡県は4番手)になりますが、国内の総生産高は、生産コストの安価な中国・台湾産に押されて、減少が続いています。
 苦しい状況ながらも、国内の市町村単位ではこの一色町が「うなぎ生産高」日本一であることから、一色町で決める「うなぎ価格」が全国の基準価格になっているそうです。
 国産うなぎの基準値を町が決めることには驚かされますが、それだけにしっかりとしたリーダーシップ(品質管理・経営・ビジョン等)が求められることになります。(養殖がハウス内で行われていることを知り、あぜ道を走りました)

 近年うなぎの稚魚が不漁のため、2011年「土用の丑」の日には海外産を含めて品薄(価格高騰)となりました。
 太平洋の西マリアナ海嶺付近で大量の稚魚捕獲に成功したと聞きますが、自給率を高めるためにも増殖研究に期待しています!(ウナギ大好きなので)


 上写真は旧三河一色駅で、2004年名古屋鉄道三河線廃止に伴い廃駅とされます。
 知多半島東側の矢作川河口一帯に広がるデルタ地帯は、農地(水田・畑・うなぎ養殖)に適した土地で、工場用地にも転用可能な使い勝手のいい平野が広がり、その「豊饒の地」と思える土地には、その地で励む人たちが国内競争でトップに立てるだけの可能性が秘められています。
 しかし、海外からの輸入という恩恵を避けられない現状では、人件費や光熱費等(原発廃止になれば電気代は現在以上に高くなる)で太刀打ちできない日本の第一次産業は、非常に厳しい局面に立たされています。
 気持ちとしては「品質のアピール」と思うも、消費者の現実は「値段」との相談になってしまいます……

 この地は名古屋圏に近いこともあり、佐久島から本土へ、そして都市圏への人口流出を止められなかったとすると、この先の日本は立ち行かなくなるのでは、という危惧を感じざるをえません。
 島の過疎化対策に関心を示すのが、リタイア組のジジババでは意味がないのです……


竹島(Map)

 この旅の目的は達成したので、帰り道は三ヶ根山スカイライン経由で、下写真の橋を渡ろうと竹島に寄りました。
 佐久島でのカンカン照りとは打って変わり、ものすごい南よりの風(列島縦断した台風の影響)で、金属製の欄干が「ブゥー」とうなる音が不気味に感じられます(施工が悪いんだろうね)。


 岸から400m程度の島ですが、岸側の植物相とは大きく異なるため天然記念物とされます。
 竹島全域は八百富神社(竹島弁天)の境内で、琵琶湖にある竹生島から分詞されたことより、日本七弁天の一つとされます。
 水の中に浮かぶ対象を「弁天(女神)」とあがめるのは、子宮の羊水等のイメージからだろううか。

 右写真は本土側の岸辺にある「海辺の文学記念館」で、大正~昭和初期に文人達が多く利用した料理旅館「常磐館」の建物。

 今回の旅行で感じたのは、都市は地方を利用しますし、地方が都市に甘える構造は仕方ないとしても、世界情勢の圧力が都市をスルーして地方を疲弊させる構造はどう考えてもおかしな話し、と実感したことです。
 発展のためには重要な経済界ばかりではなく、底辺(島国の地力である第一次産業)を支える意識が欠けては、この国は滅びてしまう危機感を覚えます。
 こんなにも「豊饒な地」で汗を流しても報われないとなれば、この地や国に希望を抱けなくなってしまいます……


 今回立ち寄れなかった篠島は「日本書紀」に登場し、伊勢神宮を建立した天皇の一行が船で立ち寄ったとされ、神島よりも由緒があるようですし、日間賀島はフグ・タコが有名で、島のシルエットが長崎の軍艦島のように見える(宿泊施設の高い建物がある)人気の理由を見てみたいとも思うので、後ろ髪を引かれています。
 それはどこの地でも同じですが、またの機会にチャレンジすることを胸に、3日間の小旅行レポートを終えたいと思います。


 追悼
 アップル(旧アップルコンピュータ)共同創設者であるスティーブ・ジョブズが亡くなりました。
 銀座のアップルストアに花を手向ける人が絶えない様子に、驚きと、嫉妬を覚えます(あんなに愛されていたんだ、と)。
 Macintosh(マック)との付き合いは20年以上になりますが、新しいマシンと接する際の「ワクワク感」は現在でも変わりないと思います。
 以前はソフト開発・広報・営業者を「エバンジェリスト:伝道者」としていましたが、既にMacユーザーながらそれを知った時には「正に!」と思ったもので、その元締めにジョブズの姿がありました。
 エバンジェリストの言葉には、宗教的なにおいがありますが、その通りにジョブズが「教祖様」のように映ったものです。
 Mac(コンピュータ)の未来を熱く語る言葉には、現実の「バグ:不具合」を容認させてしまう「ビジョン(夢)」が感じられました(えらく苦労させられたことも事実です)。
 そして、アメリカ大統領に「楽しいITをもたらしてくれた」という、分かりやすい言葉で表現させるに至ります。
 近づけないにしても“Nice Guy”として、忘れられない存在です。
 今後のアップルは迷走しそうですが、ジョブズの夢は実現しましたし、ひとつの役割は終えたようにも思えます……