2013年10月21日月曜日

地震への覚悟──御前崎、浜名湖周辺

2013.9.26・27
【静岡県】

 近くて遠い静岡県に足を運んだ最大の目的は、大地震発生前の「御前崎の景色をこの目で見ておきたい」というものです(初訪問)。
 震災対策の現状など、被害軽減のヒントが見つかればというもので、「地震は近いぞ」と不安をあおるつもりはありません。


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 ※2日分の地図で広範囲になりました。

焼津市内の津波避難施設(Map)

 右は焼津市街にある津波避難施設ですが、付近にある学校などの避難場所に比べ、キャパの少ない施設です(現在準備中)。
 関係者の話しでは「避難場所は学校等の高いコンクリート製の建物で、ここは逃げ遅れた人の緊急避難施設」とのこと。想定の津波高は2階以下の高さらしい。
 市で確保した指定津波避難ビル、民間津波避難協力ビルでは足りないとはいえ、市街地での避難所設置は敷地確保から始まるため、おいそれと建設できないことも確かです。
 ここはモデル施設かも知れませんが、住民に避難意識を根付かせるためにも増やすべき施設と感じます。


牧之原台地(Map)


 小学生時代「牧之原台地で盛んな農業は?」の問に「お茶っ!」と答えたことを思い出し、一面広がる茶畑に足を運びます。
 昔の茶摘みは年一回なので茶摘娘が総出でしたが、現在は年に数回茶摘みの時期があるとのこと。

 静岡では何かにつけお茶を出されますが、都会の無頓着な「色が付いてるでしょ」とは違い、「お茶の国の作法」で出してくれるため、どこでいただくお茶もおいしいこと!
 生産・販売に加え、おいしい飲み方「お茶道」を伝えることが、静岡文化を広めるには最適ではないかと感じます。


御前崎(Map)

 以前から騒がれてきた東海地震は東日本大震災以降、「東海・東南海・南海連動型地震:西日本大震災」の一部と認識されるようになり、被害想定の見直しが進みます。
 不安視される東日本大震災の地殻変動の影響をマクロ的に考えようとすると、それこそ「日本沈没」のような壮大な話しになりそうですが、現在も日本列島は健在です。
 そこは切り離して考えていいと思います。

 しかし、これまでより大きな被害想定から、どう逃げるかを考える住民の意識は、東海地震が騒がれた時以上に高まっていることでしょう。
 そんな「自然への畏怖(いふ)」の記憶をたどると、これまでも人類は自然から学ぶことに加え、打ちひしがれた仲間から学んで来たのかも知れません……


中部電力浜岡原子力発電所(Map)

 御前崎の尖った地形は、三保海岸(砂が堆積した砂し)とは違い丘陵地の形状によるもので、浜岡原発はその丘陵地に建設されます。
 PR施設「浜岡原子力館」は平日で見学者は少ないも、元気なあいさつをするスーツ姿の若者集団を見かけます。
 これでは外へのPRでなく、社員研修施設に多額の予算を使うように見えます。でもそれが「原発行政」というもので、地域雇用を担う実績として残されるのでしょう。
 ですが、順調に稼働中は湯水のごとくお金を使うクセに、ひとたび問題が発生すれば電気料金に上乗せされる仕組みに納得する消費者はいないはずです。

 右は実物大の原子炉模型。燃料棒自体は大きくないが、そこから発生するエネルギーのレベル感は、わたしの理解尺度をはるかに超えている、としか言いようがない……


 東日本大震災以前は8mの津波を防ぐ計画が、震災後12m・15m・18m・22mとかさ上げされた「浜岡の壁」は、建設の真っ最中です。
 しかし、世界最大の防波堤(釜石)、同防潮堤(田老)の無残な姿を知る国民の目には、「津波を防ぐ」目的ではなく、再稼働を認めさせるための「アピール」であると映っています。
 今後さらに津波高が修正された際も、また上積みを考えることでしょう。
 そんなに大切ならもっと慎重に計画すべきですし、観光地御前崎の近くに作らなくてもと思うも、日本に安全な場所はほとんど存在しない現実があります。


新居関所(Map)

 最後の晩は浜名湖畔の舘山寺(かんざんじ)温泉泊。
 ガキの時分、母方の祖母とパッとしないロープウェイに乗った断片的な記憶があります(現存)。

 汽水湖(海水と淡水が交じる)である浜名湖は海に開いているため、江戸時代の旅では船を利用しました。
 右の新居関所にある船着き場は、「船を関所に着けさせれば通行人全員を調べられるって寸法よ」という発想のようです(対抗する抜け道もあったことでしょう)。

 元の湖口は閉じていましたが、1498年の地震(明応地震)に伴う津波で、海と通じたとされます。
 浜岡の壁はそれを防げるのだろうか?


浜名大橋


 新幹線の車窓から「浜名大橋:浜名バイパス(1978年開通)」を眺め、いつか走りたいと思うも2013年の実現まで用事のない場所でした。
 建設当時の珍しさはないが、現在もフォルムの美しさは目を引きます。

 一昨年は一色、昨年はで堪能した食のテーマ「うなぎ」を、もちろん浜松でも! と思うも、最後に持ってきたのが間違いでした。
 第一候補の旧東海道沿いにある老舗店の「休業」の札に目が点!(案内では営業日)
 郊外のため候補も限られ、慌てて物色した店にもたどりつけずにタイムアップ。
 悔しいので、高速のサービスエリアで食べましたが、満足できないものに高い金を払いむなしさが残ります。
 それは「うなぎ=浜松」という観念の古さを証明しているのかも知れない……


 帰り道で、最上級規格で作られた最新の高速道路「新東名高速道」を走りました。
 見た目からも、路肩の広さ、トンネルの大きさにゆとりがあるので、圧迫感無く走りやすい印象があります(強度も増しているのでしょう)。

 地震の備えには、流通の大動脈「東海道のバイパス」を最優先とし、各地域の防災対策の見直しは途に就いたばかりでも、迅速に動き出す様が見て取れました(地震は新幹線の代替となるリニア新幹線完成後であることを……)。
 おそらく国も自治体も、これまで日本をけん引してきた太平洋ベルト工業地の被害は免れない(被害を受けたら大混乱だが、防ぐことは不可能)との判断なのでしょう。

 自治体の財源は限られるので可能な部分からにしても、最優先は「地震・津波被害から身を守る啓蒙活動」に尽きます。
 万全な備えは不可能なので、いざというとき個人で判断する際の手助けとなる知識や情報を、事前にどれだけ周知できるかということになるのでしょう。
 この地に限らず、刻々と変化するさまざまな状況下で、国民が必要とする「生きた情報」を継続的に提供することが、国民を守る義務を果たすことにつながります。

 東海道をゆく 了

(上:中田島砂丘、下:天竜川河口の竜洋海洋公園)


 追記──自分はこの先、どこまで行けるのだろうか?

 この旅行中、昨年まで現職場で同僚だった方の悲報に接しました。
 つい先日は前職場の同僚、現職場の同僚が手術(見通しは明るい)など、続けて同年代の健康不安に接すると、「吹けば飛ぶような自信」が大きく揺らいだような気がします。
 旅行に例え、これまで南から北を目指してきた自分は、この先どこまで行けるのだろうか? と考えると、目標は「竜飛岬」と具体的に伝えておきたい気持ちにさせられます……

 年齢と共に無意識に働くブレーキと、体の要求に耳を傾けるよう心がけるしかないのでしょう。
 お互い気をつけましょう。それ以外にはなさそうです……

2013年10月14日月曜日

谷間で汽笛を聞きながら──大井川鉄道

2013.9.25
【静岡県】


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 昨晩泊まった寸又峡温泉は、近くの温泉がダム建設で水没するため1962年に開かれ、無色透明ながら「トゥルットゥル」のお湯を楽しめます。
 この地は1968年の金嬉老事件(きんきろうじけん:武装犯が旅館の宿泊客らを人質に籠城)で、不本意ながら注目されました(耳にしたが記憶にない)。


千頭(ちず)駅(Map)


 千頭駅は、大井川鉄道の終着駅・南アルプスあぷとラインの始発駅で、現役のSL転車台(ターンテーブル)もあり鉄道マニアにはたまらないようで、山間地駅前の活気は両鉄道人気おかげですから、ちょっとビックリします。
 上のあぷとラインは、水力発電所建設用トロッコとして建設され、一部区間で国内唯一のアプト式機関車(歯車をかみ合わせて坂を上る)が日本一の急勾配を走ります。
 予定では南アルプスあぷとライン終着の井川駅まで行くつもりでしたが、プラス数時間の山道は無理の判断に意欲の衰えを感じます……(以前は先を考えず挑んだのに)


塩郷の吊橋(Map)

 近ごろ高所は怖いくせに、なぜか「ここは大丈夫そう」とわけの分からん自信を抱き、往復渡りきります。
 大井川に架かる最も長い吊り橋(220m)で、手前から、民家、道路、線路、大井川を渡ります。
 足下の民家側にすれば「領空侵犯」になり、昔は重要な生活道で協力的としても、現在は大丈夫なのだろうか。

 ここからSLを狙えば迫力がありそうですが、風向き次第では煙から逃げ場がありません。
 奧に米粒のように見えるご夫婦と橋の途中ですれ違い、互いにかけ合ったエールが仲間の励ましとして響くようで、橋を降りた道路で走り去る彼らの車と手を振り、無事を確認しあったりします。
 そのご夫婦は、非日常体験の共有感が親密さを高めたようですが、いさかいの火種にもなりそうですから、オススメはしません。だって、責任持てないもの……

 風も弱く「気分爽快!」なひとときで、「ファイト、一発!」にはならないと思いますから、一度是非!


大井川鉄道(Map)


 SLの運行時間とタイミングが合い、道の駅「川根温泉」脇の赤い鉄橋で待機します。
 大井川鉄道のSLはサービス満点で、機関車は見えなくても「遠くで汽笛を聞きながら♪」の煙と汽笛が徐々に近づいてくる高揚感には、しびれるものがあります。
 入浴施設から人も出てきますし、運転手(機関手が正しいか?)も見せ場と心得ていて、橋の上では汽笛も煙も大サービスでアピールしてくれます。
 「久しぶりなの〜」と涙ぐむおばあさんの蒸気機関車に対する郷愁には、時代背景を含め複雑な思いがあることでしょう。
 わたしはガキ時分に八王子駅で汽笛を鳴らされ、飛び上がって驚いた印象があります(八高線の機関車だったか?)。

 「キターッ!」の瞬間からあっという間ですが、迫力ある走りには「カッケー!」とほれぼれしますし、郷愁感を持たない若者に人気があることもよく分かります。


旧東海道  金谷坂石畳(Map)

 一般的に石畳は歩きやすさのためと思うも、ここは丸い石が並び凸凹なため運動靴でも歩きづらかったりします。
 付近は「青ねば」という滑りやすい土壌のため、凸部の土に触れない部分が重要だったのかも。

 ここを荷車が通ったのか? 飛脚は走れたのか? の疑問は、現代の時間尺度に生きる者の考えで、時間にとらわれない当時の人々は、あせることなく苦労を楽しみながら坂を上ったのでは、と思ったりします。
 「あの坂? そりゃぁ、てーへんだったぜ!」の苦労自慢は、誰もが同じ道を通るしかない時代の、皆に通じる話題として楽しめたのかも知れません。


島田宿  大井川川越(かわごし)遺跡(Map)


 徳川家康は東海道の整備に際し、大井川、安倍川など6河川の架橋・通船を禁じます。
 東海道最大の難所とされた大井川越えでも、川越(かわごし)人足の手を借りる必要があり、ここは川越衆の拠点を復元・保存する地区になります。

 現在の堤防と比べると田んぼのあぜのような当時の堤防付近で、足止めされた人々の姿を想像すると、映画『雨あがる』(小泉堯史監督 2000年)の絵が浮かんできます。
 お金で時間を買って目的を達成する現代人と、川が渡れるまで待つしかない侍の時間の過ごし方には大きな違いを感じますが、時代ごとにある制約の中で時間を楽しもうとする意欲があれば、時間の価値は変わらないはず、と思わせてくれた気がします。


蓬萊(ほうらい)橋(Map)


 この橋は東海道から少し外れた地に1897年(明治12年)に架けられ、現在ギネスに世界最長の木道歩道橋(897m)として認定されます。そこを往復独り占め! したつもり。

 ここが映画『ツィゴイネルワイゼン』(鈴木清順監督 1980年)の三途の川!(ロケ地)
 いまさらと思うも、調べるとたくさん出てくるのでうれしくなります。
 映画は、精神を病んだ男の「生と死」をめぐる非・常識的ストーリーなので、観賞してピンと来なかった人への解説は難しいかも知れません。
 六文銭(三途の川の渡り賃)の価値は分かりませんが、上の橋は100円で冥土へ渡り戻ってこられます。
 先も見えない橋にワクワクと歩を進める心境には、久しぶりの「清順ワールド」に身を投げ出す快感があります!
 その説明も難しいし、冥土とは「未知なる地」でいいようにも思います。


 この日の宿は焼津にとり、食のテーマである「焼津のすし屋」へ。
 これまで各地で薦められどこもNGだった太刀魚ですが、塩味であぶったものを出してもらい、初めてうまいと思わせてくれます。
 単身赴任の彼に教えてもらった日本酒も楽しめました。
●磯自慢─吟醸:お酒らしい味を楽しめる
●喜久酔(きくよい):すっきりしているので、つまみながら飲むにはこちら!

 酒も肴も満足し文句ないばかりか、値段の高さも経験させてもらいました(東京もんが調子に乗ってましたし……)

 上は翌日の新金谷駅発車前の絵で、蒸気機関車の旅に盛り上がるジジ・ババたちが群れています(遠足の子どもたちのよう)。
 外からは見ましたが、やはり乗らなければ話しになりません。次は是非汽車の旅を!

2013年10月7日月曜日

記憶をつないだ──登呂遺跡・三保・丸子

2013.9.24
【静岡県】


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登呂遺跡(Map)


 前日の晩、静岡に単身赴任中の友人と飲み、近ごろ売り出し中(?)の「静岡おでん」を薦められます。
 黒いつゆで煮込まれた姿は、関西の方が関東のうどんつゆを見た驚きに近いのでは? 味は東京と名古屋の中間とのこと。
 具にもはいる黒はんぺんはイワシ等の練りモノで、愛媛のじゃこてんにも似たつまみにもってこいの具材です。
 もうひとつ驚いたのが「静岡割り(しぞ~かわり):焼酎のお茶割り」で、最初は懐疑的でしたが、「これあり!」と気に入り最後までおかわりしました。
 こんなにお茶を飲むと眠れなくなるのでは? と思うも、同じだけ酒を飲んでいますからそれは余計な心配で、グッスリと……


 酒の席で、小学校の社会見学で登呂遺跡まで来た、の話題になります。
 「隣県でも遠かった印象がある」「何でここまで来たのか?」
 当時までに発見された遺跡は数多くあっても、建物を復元する遺跡の先がけだったのか? 単に行き先選定会議で、社会の先生案が通ってしまったのか?
 当時の記憶は皆無なので歩いてみても、ガキ時分に登呂の火起こし像を目にしたらしばらく盛り上がりそうですが、火起こし体験とかしたのかなぁ? 程度でした。

 上は、近くの小学生が秋の虫採集に走り回る様子ですが、付近で久しぶりにシオカラトンボを目にしました。トンボは湿地や田んぼに生息するので都会ではなかなか……


 この遺跡は海も近いが川沿いに作られた集落と知り、静岡の彼が感じた「静岡県民の地元意識の強さ」のルーツは、河川ごとに生活圏が発展した「川文化」によるものか?(大きな川の間は山に隔てられている)と思ったりします。
 学生時代の富士川団体研究会(地質調査)で静岡出身の先輩同士が、「オイ、焼津の〜!」「何だぁ、島田(地名)野郎!」と、いがみ合っていたこと思い出しました。
 ライバル視して競い合いながら発展してきた、ということかも知れません。


三保の松原(Map)

 三保に向かう道すがら日本平に上りましたが、富士山方面が雲に隠れてしまうと「ハィ、それまで〜よ!」と困ってしまい、写真はありません。


 上は2010年3代目羽衣の松とされた木で、2代目からは50m程度内陸側に位置します。
 三保の松原海岸では砂浜の浸食が進んでおり(安倍川開発が原因とされる)、静岡県が海岸保全事業を行っています。
 せっかく世界遺産に含めてもらったのですから、死守でなく広げるくらいの意欲で取り組んでもらいたいが、河川の洪水防止策が優先なのは仕方ないところです。

 右の御穂神社参道は、三保の海岸まで500m続きます。
 目にした瞬間、大学卒業を迎える正月に静岡の彼+1名の友人と、初日の出を見に来た際に「3人で歩いた!」記憶がよみがえりました。
 何でその3人なのか、何でわざわざ三保の松原まで来たのかまるで覚えていませんが、思い出作りとすれば成功だったようです(日の出は拝めた記憶がある)。
 今ではあり得ません。若いって素晴らしい!

 岬先端の海岸には、路面ガタガタの飛行場があります。
 静岡県と赤十字飛行隊の訓練飛行場で、右の薄汚れたトラックが管制施設らしい。
 赤十字飛行隊は、日本赤十字社が行う災害救護、人道援助等に派遣されるので、予算云々よりも路面ガタガタの滑走路での離着陸訓練が必要? と思ったりします。
 平地の少ない日本で有効なヘリコプター等は、主要空港に基地を持つそうです。


 もうひとつの「覚えてる!」場所は、交差点の「折戸」という地名です。
 上のマリーナは以前製紙工場向け木材の貯木場で、海底に木くずがよどんでおり、周辺の「曝気(ばっき)調査:水に酸素を供給し水中微生物の活動を促進させる浄水処理法」のアルバイトで訪れた際の記憶です(奧にパルプ工場)。
 海中に沈める機材の上げ下ろしでぬれた作業服の臭かったこと……
 見違えるような光景を目にすると、少しは役に立てたような気持ちになれますし、自己満足ですがそんな確認は重要だったりします。


丸子(まりこ):旧鞠子宿(Map)

 ここも静岡市内(静岡市は広い)で、旧東海道の面影を残す場所が点在しますが、主要道のバイパスが整備されるため、脇道(旧道)に入りにくかったりします。
 勉強不足で何も見られないも、芭蕉の句、弥次喜多道中、広重「東海道五十三次」に登場する、丁子屋(ちょうじや)の「とろろ汁」にありつけました。
 おひつに入ってくる麦ご飯は、広く大きめの茶碗に3杯分ありますが、とろろもたっぷりあるので「こんな満腹感久しぶり」までサラサラっと入ります。
 「味噌を使っています」の説明のように口当たりがよく、この地域は自然薯(ヤマイモ)に恵まれるそうなので、間違いないでしょう!


追記──国民体育大会 in 東京

 
 現在東京で開催される国民体育大会の「なぎなた:薙刀」競技会場とされる、港区スポーツセンターをのぞきました。
 3人で戦う団体戦で、有効打突の2本先取を競います。
 剣道の、面・小手・胴・咽喉部に加え、脛(すね)を狙うことから、実践的な武器だったことがうかがえます。

 入場料を取らず自由な観戦を促す姿勢は、スポーツと身近に接する機会を与えてくれ、国民体育大会の名にふさわしい取り組みと感じます。
 国体とはいえ東京での開催は54年ぶりだそうで、2020年東京オリンピックも56年ぶりとすれば、もっと盛り上がらねば!

2013年10月3日木曜日

富士山麓水の恩恵──三島・富士

2013.9.23
【静岡県】

 静岡県は、接する神奈川県育ちのせいか「いつでも行ける」意識から、富士・伊豆周辺以外は後回しとなっていました。
 品川〜三島はひかりで30分程度の近場感が逆に、近くて遠い場所としたのかも知れません。


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三嶋大社(Map)


 三島で最初に染み込んできたのは「豊かな水」の印象で、富士山から流れ出た「三島溶岩」は先端の地に、堅固な地盤と伏流水の恵みをもたらしました。
 豊かな湧水が人々を呼び寄せたようです。

 源頼朝(伊豆流刑時)に盛り立てられ信仰を集めた三嶋大社では、全国に認知された「三島暦(ごよみ)」編さんのための天文台が設けられたそう。
 三嶋大社の門前町から東海道の宿場町として栄え、良質な水を必要とする工場(東レ、東芝、オムロンや、裾野・御殿場にある工場関連企業)の力で、新幹線駅を誘致したようです。

 町には品の良さが感じられるものの道が狭いため、最終日(金曜日の夕方)の混雑には閉口させられました。


柿田川(Map)


 ご存じのように、地下溶岩の中を流れる富士山麓の雨水を水源とする、日本三大清流(長良川、四万十川)とされる清流ですが、全長1.2kmの先で狩野川に合流します。
  国道1号線脇の場所柄には驚きましたが、溶岩に守られた地下水は周囲の影響を受けない様子が絵から伝わると思います。


 右の人工物は、以前この地にあった製紙工場のくみ上げ施設で、一時は排水による水質悪化で魚も住めない状態だったと。
  1980年代から地元有志による工場移転運動や清掃活動が行われ、カワセミ等も生息する環境が再生されます(現在では東京でも見られますが)。
 市街地で自然の恵みに接することができるのは、郷土の誇りとして胸を張れます。


沼津港魚市場(Map)


 昼食は「沼津港で桜エビ!」と気合いを入れるも、連休で盛り上がる人たちが押し寄せ、交差点から港に入れない大混雑。
 ですが市場関係者も慣れたもので、市場周辺のスペースを全部観光駐車場に解放して、対応してくれます。
 いくら人が出ても、ご当地の「桜エビ」「シラス」「金目鯛」あたりにターゲットを絞れば、満足感を得られそうです(イメージは無かったが、マグロもあるようです。冷凍ですもの…)。


 上は一本入った通りですが、この裏の通りも店舗建設中の「イケイケ!」とは、うらやましい限りです(東京圏の来客も期待できる絶好の場所柄)。
 わたしを含めて「満足感」が口コミで広まりますから、期待を裏切らない限り今後も活気が高まりそうです。


田子の浦港(Map)


 高度成長期には「田子の浦=ヘドロの海」の印象が強く、ゴジラやウルトラマンにヘドロ怪獣が登場した時代がありました。
 豊かな富士山麓の水を求めて集まった工場群は健在で、一帯の絵から小学校で学んだ(?)「太平洋ベルト地帯」の響きがよみがえります。近ごろは「ベルト」に「地帯」の意味が含まれるため「地帯」を省くらしいが、今さら記憶の修正はできません。
 三つ子の魂のように、ガキ時分に接した公害の負のイメージは払しょくできませんが、現在の富士市内商店街の活気には工場群が不可欠であること、よく理解できました。


 郊外に並ぶ工場の中に「平家越え」という場所(石碑と橋)があります。
 伊豆で挙兵した源頼朝(1180年)と、その追討に向かう平家軍がにらみ合ったのが富士川の地でした。
 しかし、平家軍は川から飛び立つ水鳥の音を夜襲と勘違いして、戦わずに敗走します(「おごる平家…」転落の序曲)。

 富士川河口付近には現在も細い水路が残されていますから、それらを束ねて河口州とすると、広大な湿地帯が広がっていたことになります。


富士川河口(Map)


 鎌倉時代の富士川河口は田子の浦港付近らしく、富士川の渡しは現在の富士駅北側辺りとされます。
 江戸時代以前には、渡し船賃はタダ(街道を整備した源頼朝が徴収を禁止)という、交易推進策(?)があったようです。

 学生時代に、所属学科有志等による「富士川団体研究会:地質研究を目指す集まり」に何度か参加したことがあります。
 「観察する目」を教えてもらったと感謝していますが、記憶に残るのは、ずぶぬれになって滝を上ったこと、宴会で騒いだこと、と言ったら諸先輩に怒られそうですが、もうあんなことはできません……
 


追記──連続テレビ小説「あまちゃん」終了

 楽しい半年でした。
 キョンキョン大爆発!(ケツをまくった役、やりたかったんだろうなぁ〜)
 どこを切っても、とぼけたカワイイおばちゃん、薬師丸ひろ子!
 キレイな「ばっば」宮本信子さん。(特に八木亜希子の笑顔は忘れられない)。
 どのキャラも痛快で、出演者全員から演じる楽しさがあふれ出ていて、めざましタイマーのテレビからテーマ曲が聞こえると「パチッ!」と目覚めたものです。

 音楽も見事でしたが、特筆すべきは原作・脚本の宮藤官九郎(クドカン)の力です。
 伏線より強い力を持つ「前に見た状況」を繰り返すことで、以前感じた「見る側の思い」を引き出し「今度は違うのか?」とテンションを高めて、「時間」と「状況」の違いを表現する説得力には舌を巻きました。
 演出への注文が多かったというか、ほとんどクドカン的演出だったのが勝因でしょう。

 注目される被災地への視線は、夏ばっばの「おかまいねぐ」に集約されているように感じます。
 その言葉には、悲しみ、苦難、不安を乗り越えようと自分を叱咤する「心意気」や、感謝の気持ちが込められているのであろうと……

 ファンでない人もよろこんだ楽天イーグルスの優勝もあり、今年のMVPはマー君か、クドカンか悩むところです……

2012年10月19日金曜日

「日本最古の石」自慢──飛水峡

2012.9.27
【岐阜県】──飛騨の道 ⑤


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飛水峡(ひすいきょう)(Map)

 下呂温泉「噴泉池」の河原を流れる益田川の名称が変わり→飛騨川(→下流では木曽川)沿いに「中山七里」とされる渓谷があります。
 奇岩や怪石が数多くあるとの期待感も、何気なく通り過ぎてしまったので「飛水峡」まで足を延ばしました。


 「日本最古の石博物館」の看板を見かけ、立ち寄ったものの休館日……
 この一帯に広がる飛騨山脈は、日本で最も古いとされる岩石で構成されています。
  中でも飛騨川の礫岩(れきがん:岩片が泥・砂などと固結した岩石)に含まれる岩片の生成は約20億年前との推定から、日本最古の岩石とされています。
 それが町おこしになるかは疑問ですが、日本一は町の自慢です。

 そんな「七宗町:ひちそうちょう」は、道路脇にも「七宗=ひちそう」と正しい読み方をアピールしています。
  司馬さんは「関西圏のなまり」としますが、何と言われようが「七=ひち」としてもらわねば「町の書類は発行できかねます」くらいの主張に感じます。
  日本語表現の歴史変遷・多様さ・いい加減さと出会うことは、初めての土地での楽しみでもありますが、「読んでくれない固有名詞」を持つ自治体は各地に多くあります。
 本来の表現にこだわるのは当然でも、周知の広報費もバカにならない気がします……


四つの滝(Map)

 飛騨川沿いの金山から郡上へ向かう道の脇に、「四つの滝」というかわいらしい名のスポットがあります。
 観光客を呼べる場所ではないにしても、右の「白滝」との対面では、小さいながらもその静寂感に「これ、これっ!」と心の中で歓声を上げてしまいます。

 この一帯は国の特別天然記念物とされる、オオサンショウウオ(地元ではハザコの名)の生息地でもあります。河川改修の手が入ってないということでしょう。
 彼らの容姿では、万が一大雨などで滝から落ちてしまうと戻れないように思えますが、回り道があったりするのだろうか?

 デートスポット的ですが帰る際も駐車場は+1台程度なので、比較的手軽に「マイナスイオン&フィトンチッド」を独り占め! できる場所かも知れません。


戸隠神社(Map)


 ここは伝説(古事記)の、天照大神(あまてらすおおみかみ)が隠れた天岩戸(あまのいわと:宮崎県高千穂の天岩戸神社とされる)を開いた際に、飛び散った岩戸のかけらを祭る郡上市の戸隠神社です。
 高千穂の神社の説明には、天岩戸が飛んでいったのは長野県の戸隠神社とありました。
 ですがこの岩を目にした際、なるほど岩戸は飛び散ったのだからこの地にあってもおかしくないわけで、布教に伝説を利用するには絶好の造形ですから、地域を挙げて盛り立ててきた経緯が感じられます。
  そんな様子は鳥居脇の大杉にもうかがえます。地域の人たちの力によって、岐阜県天然記念物とされるまで見守られてきたのでしょう。

 いわゆる「日本はじまり物語:伝説」に対しては、懐疑的以上の否定的な見解を持っていましたが、近ごろでは、全国に広がる「国民意識の根っこ」につながる様を感じ取れるようになった気がします(年齢のせいでしょうね)。
 民俗学的な視点で宗教観を観察することは「日本人」を理解するには大切なことです。
 これまでの「切り捨てるような」姿勢ではなく、「すくい上げるような」視点で、伝説と接していこうと思い始めています……


大滝鍾乳洞(Map)

 付近の山には石灰岩が多く見られるため「○○鍾乳洞はこちら→」の看板を多く見かけます。
 地名にも「大洞:おおぼら」など、洞のつく地名を目にすることからも、その多さが想像されます。

 ここを選んだのは、このケーブルカーに乗りたかったためです(1〜2分程度ですが)。
 「東海地区最大級!」の宣伝文句でも「こんなもん?」の印象は、これまで素晴らしい「秋芳洞:山口県」「龍泉洞:岩手県」等を見ているので、仕方ないところか。

 日本列島が形作られる過程で重要視される中央構造線(日本沈没などで登場する大断層)を境に、異なる石灰岩層が鍾乳洞を作る様子を見ると(四国と本州は違う)、日本列島がまさに「パッチワーク」のような「寄せ集め」の岩盤で成立している様が感じられます。
 そんな寄せ集めの地盤の上に、単一民族(とされる)が暮らすことができるのは、辺境の地+先人のおかげなのでしょう。



国営木曽三川公園(Map)

 右は初日、岐阜羽島から高速道路に乗ってすぐ目に入った「○○大仏のような宗教施設?」的な巨大構造物で、近づくとタワーらしく、これは是非と帰りに寄りました。
 ここは「国営木曽三川公園」で、愛知、岐阜、三重(も?)3県にまたがる日本一広い国営公園とのこと。   「木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川が有する広大なオープンスペースを活用し…」とはすなわち、洪水対策を施した河川敷を有効活用しましょうと、国がお金を出してくれた施設になります。
 タワーの名称は「ツインアーチ138(いちさんはち:1995年完成)」で、高さ138メートルの展望タワーです。

 あっさり誘いに乗せられ、下のような田園風景を見られる展望塔はなかなか無いと思うも、このタワー建設の意義が理解できません。
 河川敷側の景色には分かる面もあるので、どうせなら木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の合流地帯に作ればと思うも、その付近には「水と緑の館・展望タワー(高さ65m)」があるそうです。
 未見ですが、そちらの場所にこそ巨大タワー建設の意義があるように思えます。
 「作るモノ無いから、大きいの作っちゃえ!」に、まんまと引っ掛かった気がして、ちょっとガッカリです。制服のお姉さんたちも、平日でヒマそうにしていました……


 先日の東京タワーの展示で目にした「全日本タワー協議会:国内20のタワーで運営される協議会」にここも加盟しているので、「タワーをひとつ制覇した」くらいに数えておけば、そのうちスタンプがたまる(?)かも知れません……
 ちなみに「東京スカイツリー」が加盟していないのは「ツリーはNG」だったとか?
 それではちょっと了見が狭い気もしますが、ローカルなタワーが片寄せる集まりなので、加盟後いきなり「グローバル化」を迫られても困りもの、という気がしました……

 ここから岐阜羽島駅はほど近く、今回の旅行も終了となります。

 今回の旅行で印象に残ったのは、食べ物のおいしさです!
 山のものにあまり関心が向がず期待薄でしたが、一帯はおばちゃんたちに大人気の「メジャー観光地」ですから、手を抜けないのだと思います(弁当までちゃんとしていた)。
 雪深い冬の間に根気が養われるのか、性分として「手を抜くということができない人々ではないか?」と感じます。
 そんな人たちの持てなしに感激し、しかと気持ちを受け止めたことを、感謝の言葉として表すべきと思います。

 とても「おいしい時間」を、ありがとうございました!


追記
 AKB48もよく知りませんが、こちらではもっと知らないSKE48がテレビによく登場します。
 なるほど「ローカルなアイドル」をでっち上げようという魂胆だったのね、と初めて知りました……

2012年10月14日日曜日

府県よりも広い高山市──高山、下呂

2012.9.26
【岐阜県】──飛騨の道 ④


より大きな地図で 飛騨の道──岐阜県 を表示

高山(Map)

 高山市は2005年の合併で、日本で最も面積の広い市町村となりました。香川県・大阪府より広く、東京都とほぼ同じ面積ですが、92%近くは山林という土地柄です。
 岐阜県出身の知り合いのもうひと方は、「田舎度自慢では負けない!」と胸を張る上宝村(奥飛騨温泉郷周辺)出身者です。この合併で高山市出身と言えそうですが、「だからって、ド田舎が都会に変わる訳じゃないんだよ!」なんて声が聞こえそうです。

 この地域は飛騨山脈の北側に位置する(太平洋と日本海の分水界の日本海側)ため、おのずと富山県側との経済・文化交流が盛んになります。
 その土地柄の良さを感じたのが、新米のおいしさです。
 水のいい富山・岐阜のお米を食する地域なので、地産地消のプリップリ感に「うまっ!」と、目が飛び出るような至福感が味わえます。現地で是非!

 現在もガイドブックには「飛騨高山」と記され、地名のように浸透していますが、飛騨市役所は古川にあります。
 ここはご存じのように、江戸時代の城下町・商家町が残ることから「飛騨の小京都」と呼ばれ、人気の高い観光地です。
 また、海外のミシュラン旅行ガイドで「3ツ星」を獲得したためか、外国人旅行者にも必見の観光地のようです。
 旅行会社とすれば当然、世界遺産の白川郷と3ツ星の高山をセットにしたコースを設定しますから、ここも韓国からの旅行者がにぎやかになります。


 ここ高山陣屋は、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理するための代官所・飛騨郡代役所で、当時の中心地になります。
  幕府が直轄領としたかったのは、前述の神岡鉱山から産出する「金・銀の確保」ためですが、直轄領としたころには、既に生産のピークは過ぎていたようです。

 上は、事前学習より実物の印象がよかった、屋敷の梁(はり)にある「釘隠し:釘を隠すための飾り」の真向兎(まっこううさぎ)です。
 ルーツを「因幡の白ウサギ」にたどれそうな家紋があるそうです。


 古い町並みにある、店舗と酒蔵間の敷地を中庭とした「お酒のテーマパーク」のような一画です。
  きれいな杉玉(すぎたま:スギの穂先をボール状にしたもの)なので、旧来の習慣に従うものかも知れません。
 本来は蒼々とたものをつるし、枯れ色の具合から新酒の熟成の具合を想像して、飲んべえたちが舌なめずりしたそうです。
 酒好きでも旅行では車移動なので、飲み比べもできませんから、写真だけ撮って素通りです……


 古い町並みを生かそうとするさまざまな工夫を目にしましたが、もしここに暮らしたら「こんな玄関にしたい」と思った光景です。
 このツタの伸び方は、イメージしなければ誘導できません。
 今年はうまくいったのでしょうか? 「ベスト玄関賞」です。

 

 高山といえば「日本三大曳山祭」のひとつ、屋台のからくり人形(起こりは江戸時代)が有名な高山祭で、10月9・10日に屋台が出る桜山八幡宮の秋の八幡祭が行われました。
 この屋台は「動く陽明門」とされますが、日光東照宮「眠り猫」の作者と学んだ「左甚五郎」は、現在では一人でなく各地の腕自慢の工匠たちの代名詞ではないかとされています(司馬さんは代々続く「飛騨の匠」ではないかと解いている)。

 いづれにしても、この地の人々はまじめで勤勉であることは確かと感じます。
 旧上宝村出身の方も誠実で、指先の器用な方です(飛騨の匠?)。(上は高山祭屋台会館、祭りは未見)


 屋台の重さを想像できる、屋台庫前の車の道。
 さすがの気配と思うも、「道に出すまでが大変なのよ!」の声が聞こえそうな気がします……


 遠くから尖塔部を目にして立ち寄った、高山市図書館「煥章館」です。
 明治初期、同地にあった小学校「高山煥章学校」の再現だそうで(フランス風建築とのこと)、匠たちは新しいもの好きで研究熱心だったのかも知れません。
 いま見ると、尖塔部は屋台の上部に似ている気がします。

 上の外観よりも、図書館にお金を掛ける自治体の姿勢に感心させられました。
 雪深い季節が長い場所柄ゆえ、屋内で快適に過ごせる公共の場を求める声にきちんと応えています。
 施設内容は詳しく分かりませんが、冬場を屋内で過ごせるのは温泉だけでなく、文化施設もあるならば、「雪の季節も案外楽しく過ごせるかも?」と思えてきます……


 この日の昼食は話しの種に「飛騨牛を食べる!」と、気合いを入れて向かった店の営業は夜だけで入れず、次の店は「休業」と悪い日にぶつかり、途方に暮れて走りながら目に入ったのが、飛騨高山美術館の案内でした。
 値段なりにおいしくいただきましたが、大ふんぱつして食べた近江牛のおいしさとは比較になりません。
 思うにそれは価格の差=肉のランクの差と思われ、各地の最上級とされる肉の食べ比べをしたなら、きっとどれも甲乙つけられないおいしさなのでしょう。
 一度そんな食べ比べをしてみたいものです……

 アフターコーヒーは一服できるガーデンに移動すると、北アルプスの笠ヶ岳・穂高岳の稜線(りょうせん)がクッキリと広がります。
 そんな景色を眺めながらの一服は格別です(煙草じゃなくて、空気を味わえよ!)。
 ガキ時分は、神奈川県大山の山並みを見て育ちますが、北アルプスの険しい稜線を見て育った人には、甘っちょろいと言われそうな気もします。でも人が育つ環境はさまざまで、人格形成を支えてくれた郷土の比較はできません。

 この美術館は、ガラス工芸品やアール・デコ(装飾品)の展示なので、食事だけでゴメンナサイ。
 駐車場の木々が色づき始めており、標高の高い地域の季節変化は足早のようです……


下呂温泉(Map)

 有馬温泉、草津温泉とともに「日本三名泉」とされます(草津温泉行かなきゃ!)。
 温泉街独特の「ほっこり感」はありますが、道が狭く、傾斜地のため、浴衣・ゲタでの散歩には向かない気がします(伊香保はどうするの? と言われそう)。


 ならば浴衣に運動靴で、湯治客の注目を浴びながら露天風呂に入ろうではないか!
 ここは、益田川の河原にある「噴泉池」とされる露天風呂で、湯だまり以外に何もない(脱衣所・風呂を仕切る壁もない)混浴も勝手にどうぞの無料施設。
  そこはサルが勝手に入る温泉のような「ワイルドさ?」で、ごらんのように駅前通りの橋から丸見えです(何枚も写真撮られたので、見かけたら教えてください)。
  2010年から男女とも水着の着用が義務付けられますが、じいさんたちの着替えの様子は公然わいせつ罪的な姿(全裸)だったりします。
 「見せようとしてないんだから、見るヤツが悪いんじゃろ?」と、当たり前のように自然の姿で仁王立ちです(その姿が丸見えなの!)。
 ここに入るために海パンを持っていきましたが、実に気持ちいい!
 裸で人の注目を浴びるためか、入る勇気を持てない連中への優越感なのか、気持ちがスカッとして「ざまあみやがれ!」という気分です。

 橋の歩道には多くの手形が埋められていて、駅側の一番目に「きんさん、ぎんさん(名古屋市生まれ)」の手形がありました。
 驚きを含めお二人の姿が思い浮かんだことから、手形を残す意義を再確認しました……


 肌が「トゥルッ トゥルッ!」になるような泉質をアピールできる施設ゆえ、これまで守られてきましたが、近年下呂温泉全体の温泉噴出量低下から、維持管理が難しくなっているそうです。入りたい方はお早めに!
 上は最初に温泉がわいたとされる「温泉寺」。

 地図で関心を引かれたのが、「上呂」「中呂」とセットで「下呂」があるということです(考えてみればありそうですが)。
 おそらく「呂」は、川の流れの速い「瀬」のような意味で、飛騨川の流れの速さを表しているようです。

 さぁ、次は草津温泉を目指しましょう!