近ごろ勤務先の六本木界隈は、こんなにも外国人が多かったっけ? と思うほどで、原発事故で自国に引き上げていた人たちが、半年経過をメドに一気に戻って来たようです。
放射線パニックは、海外からの目にもひと段落と判断されたのでしょう。
もちろん完全収束にはまだ時間はかかるにしても、海外の国の判断が見て取れる事例として、明るい兆しと受け止めましょう。
9月15日(木)
【愛知県】【三重県】
より大きな地図で 東海の道 を表示
伊良湖(いらご)岬(Map)
神島行きの船は10:00発なので、近くに泊まれば出航前の船着き場から、ブラッと散歩できる距離に伊良湖岬灯台があります。
山から下る道があるので、以前灯台は山上にあったか(山頂には現在、航路信号所のドデカイ建造物があります)、現在の位置にあっても山越えが必要だったかも知れません。
現在では、海岸沿いに遊歩道が整備されており、以前の面影は感じられません。
右写真が伊良湖岬灯台で、これから向かう神島が左下に見えます。
前日も、海岸線から立ち上がる急峻な斜面の「キツそう!」な印象に、「あそこ登るの!?」と地図を確かめたりしました。
この旅のメインだし、飲み物だけはちゃんと持って船に乗り込む「どえりゃあ暑い朝」でした。
小説『潮騒』
今回の旅は、一冊の小説を手にした時点から始まります。
ここ神島は三島由紀夫『潮騒』の舞台と知り、未読の印象から慌てて本屋に駆け込みました。
執筆された1956年(昭和31年)という時代に、神話を構築しようとする腐心を端々に感じながら読み進みます。
骨格のしっかりとした「純粋さにこそ人間本来の力が秘められる」昭和時代の神話として成立させたことや、民俗学的下地あってこそ成り立つ面にとても興味を引かれ、あっという間に読み切りました。
よく「本は若いうちに読め」とされますが(若いうちに見聞を広めろの意でしょう)、この本を10〜20代に読んだとしても、背景に脈々と描かれる孤島の閉ざされた社会生活での慣習や、そこで暮らす人々の「島と外の世界」に対する考え方や世界観というものは読み取れなかったのではあるまいか。
わたしも、旅の意味が変わり始めた30代後半頃から、ようやく民俗学や文化人類学等への関心を持って歩くようになったので、本作の背景が理解できるようになるのは、それ以降という気がします。
それはもちろん、若いうちに読むなと言うことではなく、個々のさまざまな経験の度合い(年代)により感じ方が変わると考えれば、いつの年代でも愛読書を携えておく必要性と共に、「人生常に勉強」であることを再認識させられたような気がします。
そんな認識から「人生、時間はいくらあっても足りない」に込められる意味が理解できるような気持ちにさせられます……
八代神社(Map)
三島は「都会の影響を受けず、風光明媚で、経済的にもやや富かな漁村」を探し、紹介された神島を「万葉集や古典文学に通じる由緒がある」ことから舞台に選んだとされ、実際に現地で取材をしました。
古くは歌島(かじま)、亀島、甕(かめ)島と呼ばれ、神が支配する島と信じられためか、神社には古墳時代〜室町時代の神宝が秘蔵されるそうです。
後年には鳥羽藩の流刑地とされ「志摩八丈」と呼ばれます。八丈とは八丈島のことで、平安時代末期に源為朝が流刑された地名が広まったようです。
距離的には愛知県伊良湖岬に近いものの、三重県鳥羽市に属するので、以前は鳥羽港からの船便しかありませんでした。現在鳥羽市営定期船が1日4便あり、時間はかかるも(1時間弱)ライフラインなので往復1,420円とされます。
一方、観光客の多い伊良湖岬側からは、鳥羽までのフェリーはあっても目の前の神島に渡る船がないことに、不満が多かったようです。
そんな要望に登場したのが神島観光船(1990年代)ですが、定期船とは違うためか25分程度の距離でも往復2,500円もします。
どうしても行きたい人を相手にしている、の言い分はわかりますが、これは完全に「観光地価格」です。
本社は神島にあるので島民の起業と思われますが、狙い的中の人気です。主力は釣り客でも、伊良湖岬付近の国民休暇村から「少しは運動しよう」という年配客を呼び寄せています。
おしゃべりな船長で、話しに夢中でロープを外し忘れて出航するようなオッサンですから、島の港で「八代神社の階段が見えるだろ、還暦過ぎても祭りではオレも駆け上るよ!」とぶちあげても、その真偽の程は分かりません。
でも、そんな行事があることはうかがい知りました。
200段を越える石段上に構える社で(下るのが怖いくらい石段の幅が狭く急)、息を整え目にした光景から想起したのは「伊勢神宮に近い土地柄だから?」と感じた答志島「美多羅志神社」です。
参拝所に玉石が敷かれる様は美多羅志神社に同じく、構造物全体(土台を含め)から伝わる歴史こそが、島民が守ってきた文化の現れに感じられます。
神島は「伊勢神宮文化圏」の最遠地に思えますし、答志島を含めた島々を「神々の島」として支配もしくは特別に庇護していたのかも知れません(全国に広がる伊勢信仰とは性格が異なる印象)。
島(自然)と神社と島民が一体となることで生まれた文化と思える社には、威厳と包容力が感じられ、上ってきた者を静かに受け止めてくれますし、裏にも物資運搬用の道路はありませんから、社を維持管理する側にも感心することになります。
名称「神の島」の由緒は不明でも、神様と共に生きてきたと思えるような島民の「凜」とした姿は現在も変わりません。
それを踏まえると、三島の選択眼が正しかったというよりは、島の生き様は正しきことと三島が証明してくれたとさえ感じられます。
神島灯台(Map)
神島と伊良湖岬間の伊良湖水道は日本三海門の一つとされ、「阿波の鳴門か音戸の瀬戸か伊良湖度合が恐ろしや」と船頭歌に登場する海の難所でした。
観察してみると、潮の満ち引きによる流れはその時点では一方的なので分かりませんが、島影で渦巻くような白波周辺には漁船が近寄らない気配からは、潮の流れを警戒している様子がうかがえます。
この灯台は、江戸への物資輸送のため航路が開設された江戸時代に、御燈明堂が作られたのが始まりとされます。
一時、菅島灯台に役目を譲るも、明治時代に戦艦が暗礁に座礁したことから再度重要視されます(軍隊を守るために使われたお金が、後の礎になりました)。
灯台手前の歩道脇に、地学をかじった者には目が止まってしまう「楽しげな?」岩肌が露出しています。
チャート(放散虫等の殻や骨が海底に堆積した岩石)と思われる地層が、グニャグニャに折れ曲がっています。チャートは海底の堆積物から形成されるので、太古の昔は太平洋の海底だったことになります。
これは、前回ふれた中央構造線(東日本大震災を引き起こしたプレート境界的規模の断層)に押しつけられ折れ曲がったと考えられるので、今回の大地震の震源付近でも現在こんな様子が見られるのかも知れません。
そこで思い出したのが先斗町の彼(地質の専門家)の、渥美半島〜志摩半島を結ぶ伊勢湾大橋の予備調査で、神島に橋脚を立てるための地質調査するも「巨大断層付近はズタズタだから、作るのは相当大変」の話しです。
上写真を見れば納得で、同じように地質の複雑な瀬戸大橋は全部自前のコンクリート橋脚を作っていますから、橋ばかりかトンネルもかなり難しそうな印象を受けました。
ましてやフェリーも閑古鳥では(観光バスは多い)、この地でのプロジェクトXは、ペイできないように思えます。
小説でも重要な舞台となるこの灯台も、理由は違うように思われますが恋路が浜のように「恋人の聖地」とされ、写真右の塀にプレートがあります。
それは、NPO法人地域活性化支援センター「恋人の聖地プロジェクト」で選定されたデートスポットだそうですが、NPOだけにスポンサーには逆らえないのでしょう、このプレートには「桂由美(ブライダルデザイナー)」の名が刻まれています。
その流れか、右写真左下には「カメラ台」(ここにカメラを置いてセルフターマーで撮りなさい)がありますが、この島では若いアベックすら見かけません。
島内の周回遊歩道には船に同乗した観光と思われる若い娘たちの姿はなく、青春時代に小説を読んだと思われる年配者ばかりがせっせと登ってきます。
この島で紡がれた神話は、もはや若者には受け入れられない「昔話」とされるかも知れませんが、「この先にこそ聖地がある」の思いが揺るがない、年老いたロマンティストたち(わたしを含め)の歩みは止まりません……
監的哨(かんてきしょう)跡(Map)
監的哨は日本軍が大砲性能テストの着弾観測所とした建造物で、海側に見晴らしのある場所に作られ、紀伊半島側の菅島(未訪問)にもあるらしく、それは渥美半島から伊勢神宮方面に放たれたことになります。
右翼の旗頭とされた三島に何か思いがあったのかと思うも、執筆当時は政治的活動はしてなかったようですし、一時右翼の脅しにおびえていたとの記述を目にします。
訪問時、周囲はあずまやなどの工事中で(観光地としての整備)、建物への立ち入りは禁止されていました。
建物はいかにも軍の施設らしく、朽ちた部分があるとしても必要最小限の設備に見えます。
軍が去った戦後、集落の反対側にあるコンクリート造りの小屋は、島民の避難所及び物置とされたのでしょう。
小説や映画を知らずとも、「その火を飛び越して来い」というインパクトに接する機会はあったかと思いますが、ここがその舞台とされた場所になります。
ここで直前に読んだ小説の世界が広がってきます(この時点では映画は未見)……
それは、嵐で休漁となる日の待ち合わせ場所とした監的哨に先にやってきた青年が、暖を取るためにたき火を起こすも居眠りしてしまいます。
彼が寝ている間にやってきた娘が、服を乾かそうと裸でいる時に青年が目を覚ます、という場面。
相思相愛の仲であっても、「火を飛び越す」ことを娘に求めさせ、青年に実行させる作者は、「禊ぎ(みそぎ:身の穢(けが)れを清めること)」を求めたのでしょう。
古神道で「水は身を清め、火は精神を清める」とされることの表現のようですが、明示せずとも理解できるであろうとするさじ加減は見事ですし、その後の「嫁入り前の娘がそんなことしたらいかんのや…… 私、あんたの嫁さんになることに決めたもの」のくだりは、儒教の教えが見え隠れする当時の日本人の倫理意識として、とても共感できる行動に映ったことでしょう。
(上写真は石灰岩が露出したカルスト地形)
当時(昭和)の意識では美しいと感じられたものが、現代の若者たちには「何でここが聖地なの?」「純潔って何?」と受け止められると思うと、ここは古い美意識を持つジジ・ババの巡礼所とされても反論できない気がしてきます……(もちろん恋人の聖地に選ばれていません)
小説では「女の性(sexとさが)」については詳細な描写があるも、「男の性」にはふれようともしません(男は黙って…の時代ではあっても)。
そこにふれた途端に、緻密に築き上げてきた論理構造が破たんしてしまう危機感を抱いていたように思えます。
三島自身の「性癖隠し(男色?)」であるにせよ、自信の無さがうかがえる印象があります(著書に共通しているのだろうか?)。
小さな島にしては驚くほど道案内がきちっとした観光地なので、迷うことはありませんし島の自慢なのでしょう、『潮騒』2度目の映画化である、吉永小百合・浜田光夫主演(1964年 森永健次郎監督)のロケ写真をはめ込んだ看板があちこちに立っています(この地でロケした)。
それは観なきゃいかんだろうと、帰ってレンタル店を探すも「山口百恵のしかありません」に冷や汗し、何とかTSUTAYA渋谷店で見つけましたが、2008年発売のDVDでももう廃盤扱いなんですって……
もちろん吉永さんはたまらなく可愛いのですが、小説発表から8年後の1964年作品なので、三島が接した風景に近い情景を見ることができます(山火事でもあったのか、現在と比べるとはげ山的な印象を受けた)。
これはわたしの勝手な意見ですが、神聖さを目指した原作を映像化するには、神妙さではなく、当時の日活青春路線を象徴するような「屈託のない明るさ」(未来は明るいと信じて生きる若者の希望に満ちた空気)こそがベストマッチではないかと、この映画を観て感じさせられます。
未見ですが、山口百恵版には明るさの裏に影がありそうだし、堀ちえみ版は一番似合いそうな気がするも、大映ドラマ的な大げさな表現は違うだろうと思ったりします。
狭い集落に密集した家の門前には、上写真のようなしめ飾りが時節に関係なく飾られています。
この家は「笑門」ですが、どう読んでいいのか分からない文字列(と言うかデザイン)の飾りがあります。
基本はどうも「蘇民将来の子孫(そみんしょうらいのしそん)」という、厄除けが由来のようです。
あまりにも飛躍する伝説なので略しますが、「蘇民将来」とは「素戔鳴尊(スサノヲノミコト):ヤマタノオロチを退治」だそうですから、神話をあるがままに受け入れている土地柄になります。
執筆にあたり三島が求めていた生活の様が、現在にも継承されている事に驚きを感じる面もありますが、いくら文明の波が押し寄せようとも、孤島という環境に変わりはないという現実なのでしょう。
現在の東京でも目にする茅の輪くぐりとは、上写真の門前飾りの「茅」を束ね「巻」かれたことから、「茅巻(ちまき)」とされ、京都祇園祭で「厄除けチマキ守り」とされようになり、神社での疫除け風習となったそうです。
神島港(Map)
小さいながらも活気のある漁港で、小説にも登場したタコ壺を使用したタコ漁が現在も盛んなようです(三島の舞台選定条件の「経済的にもやや富かな漁村」が現在も満たされている印象)。
漁期は冬場のようなので、食堂等の張り紙にもまだその表記も見られません。
関西での見聞から「明石のタコ(タコフェリーは運行休止になりました)は流れの速い海だからおいしい」とすり込まれたことからも、流れが渦を巻くここ伊良湖水道のタコもきっとおいしいことでしょう……(立地からも、この島はとてもいい漁場と思われます)
紀伊半島で土砂崩れのせき止め湖を作った台風12号で流出した木を集めたのだろうか、岸壁の一画に流木が積まれています(紀伊半島に近い場所柄)。
帰りの船でも急に減速する状況で、おしゃべりの船長が「流木を巻き込むとスクリューがやられる」と、説明してくれます。
訪問直後の台風15号の際、名古屋では100万人単位の非難指示等がありましたから、この山が一段と高くなっているのかも知れませんが、避けては通れない影響ではあります……
三島の舞台選定条件とされた「都会の影響を受けず、風光明媚で、経済的にもやや富かな漁村」は、現在も当時の姿を残しているばかりか、神の庇護を受けているかのように明朗な人々が生活する島であり続けています。
答志島にも通じる「豊かな笑顔」は、神ばかりでなく、豊かな海の幸からもたらされるのでしょう。
伊勢神宮に近い特別な地であるにせよ、名古屋近郊にこんなにも「豊かな島(総合的の意)」があったことに驚かされましたし、是非ともじっくりと歩いて欲しい島々です。
沖縄の宮古島沿岸にも「神島」があり、前回自分の怠慢で船に乗り遅れ行けなかったことが思い出され、必ず行くぞ! と決意を新たにします(「そこ工事したら、神様がいなくなっちゃう」という神の棲む島で、沖縄方面で後ろ髪を引かれる2つの島のひとつ)。
とても楽しかったし、気合いを入れて書いたので、長くなりました……
追記
TVでも取り上げられていますが、スパリゾートハワイアンズ(旧常磐ハワイアンセンター)が一部オープンし、フラガールたちもホームグラウンドに戻りました。
すっかり復興のシンボル的な存在となりましたが、それは彼女たちの宣伝行脚のたまものです。
写真に撮った方々の顔をTVで見かければ、「あの人いた」と身近に感じられることがとても大きな宣伝効果なわけで、盛り立てに行きたいところなんですが、ちょっと遠いのでエールだけ送ります……
2011年9月30日金曜日
2011年9月26日月曜日
豊饒の地──渥美半島
9月14日(水)
【愛知県】
ひと月遅れの夏休みが取れたので、前回がいつか忘れてしまうほど久しぶりに「旅の続き」が実現しました。目的は、紀伊半島の志摩(鳥羽)から「海道をつなぐ」ことになります。
豊橋を拠点に、渥美半島、神島、佐久島を歩く二泊三日(9月14日〜16日)の三河湾周遊ですが、はしゃいで写真を多く撮ったので、3部構成にする予定でいます。
より大きな地図で 東海の道 を表示
田原城跡(Map)
豊橋駅から車で渥美半島を目指すと、臨海の工場地帯の先に蔵王山が見え、その奧には同様に急峻な斜面を持つ山が続きます。
渥美半島には勝手に、なだらかな丘陵地のイメージを持っていましたが、見聞の大切さを思い知らされるスタートとなります。
その山のふもとに豊橋鉄道渥美線終点の三河田原駅と田原市中心部があります。
田原城は、1480年室町時代の武将戸田宗光(八幡太郎義家の子、義隆を祖とする森氏支流の源氏)により築城されます。
応仁の乱(1467〜77年:京都を焼き尽くし、戦国時代突入のきっかけとなる室町幕府管領家と有力守護大名の争い)で、西軍として活動するなど勢力を強めます。
戦国時代になると、北からは松平広忠(徳川家康の父)、東からは今川義元など、有力武将から圧力受けたため、1545年戸田康光は娘を松平広忠の側室に差し出し従いますが、一方で今川家にも従属の姿勢を示します。
岡崎城松平家は、1547年織田信秀(信長の父)に攻め込まれた際、駿府城(現静岡)今川義元に援軍を求めますが、条件に人質を要求され、6歳の竹千代(後の家康)を送ることとします。
竹千代を駿府まで送る任を負った戸田康光は何を思ったか、松平家・今川家と敵対していた尾張の織田信秀のもとに竹千代を届け、離反します。
後の家康の言葉に「竹千代を1千貫で売り払った」とあるそうですし、怒り心頭の今川義元に田原戸田家は滅ぼされます。
竹千代は後に、今川軍に捕らえられた織田信広(信長の兄だが側室の子)との人質交換により、今川の元に戻されます。
戦国の世を生き延びるための選択なのか、織田家との密約が家康の言うように「金」であったとしたら、滅びて当然という気もしますが、戸田家としては松平家・今川家どちらも選択したくなかったとすれば、どの道先が無かったようにも思えます。
上写真は、本丸付近にある巴江(はこう)神社に併設される富多満瑠稲荷(フタマル=富がたまる)で、地理的にも近く有名な豊川稲荷(未訪問)の流れか、付近は鳥居を連ねたお稲荷様が散見される土地柄のようです。
右は、城門近くにある福祉学校の校舎。
渥美半島(Map)
上述の戦国時代、渥美半島の付け根付近はかろうじて陸続きのような湿地帯で、築城には向いても農耕には向かない地域でした。
現在では大規模な埋め立てが行われ、トヨタ自動車の工場や搬出港となり、大型の輸送船が出入りする海外展開拠点としてにぎわう様子が、蔵王山展望台から見ることができます。
温暖な気候であるこの一帯では稲の収穫が進んでいるも、紀伊半島で土砂崩れのせき止め湖ができた台風12号の影響でしょうか、稲はみな風で倒されています。
訪問直後に列島縦断する台風15号が襲来しますが、大丈夫だったろうか?
ここは地図で目に入った大きな貯水池「芦ヶ池」付近で、そのほとりには、農業をテーマとする体験型の公園「サンテパルクたはら(田原市芦ヶ池農業公園)」があります。
「サラダ館(農林漁業体験実習館)」「体験農場」「サンテファーム(市民農園)」等、花や作物を通じて農業を体験できる施設で、豊かな地だから実現できたテーマパークの印象があります。
芦ヶ池水門付近には「豊川用水」の看板があり、学年は思い出せなくとも「教科書で習った」記憶がよみがえってきます。
豊川用水(とよがわ)は、愛知県豊橋市周辺の東三河地域、渥美半島や、静岡県湖西市に整備された用水路で、豊川および天竜川水系から取水する大規模な農業水利事業です。
最初の発案は田原市出身者によるそうで、インドネシア視察で目にした農業水利事業から、豊川上流にダムを建設し、そこから東三河地方に導水しようと考え、地元や国に働きかけて実現にこぎつけます。
1949年(昭和24年)国営事業として始まり、水道用水や工業用水への供給を含めて1968年に完成します。
当初の計画からかなり膨らんだと思われる農業用水確保事業は、山地のダムだけなく、海に突き出た半島側の貯水池からも水を供給することで、無理なコストをかけずに農地を潤しています。
東京近郊では玉川上水や近所の二ヶ領用水等、当初の使命を終えた遺構的な存在が多いものの、現役として大地を潤し活気ある農地を支える存在を目にすれば、教科書では教えられない実感として学ぶことができます。
平地に広がる田畑が放つ豊饒の輝きは、豊川用水というキーワードと共に心に刻まれました。
上写真は半島先端近くにある「初立池(はったちいけ)」で、この時の水位は低く展望台の足が露出しています。
この施設を含めて一帯にはかなり力が入れられており、実用+園地利用を目指そうとする姿勢は間違いではないと思いますが、そんなにお金をかける場所なの? という気もします。
豊かな自治体のおごりが見えた気がしますし、無駄なくして文化は生まれない、は確かでも、そんな「すき」が人間らしいと言えるのかも知れません……
渥美火力発電所(Map)
渥美半島先端部の海岸線は鉤(かぎ)状になっており、先端の伊良湖岬(いらご)とその返し部分に当たる立馬崎に灯台があり、後者付近に発電所の紅白煙突が2本そびえています。
現代農業では水はもちろん電気も必要ですから、発電所が必要なことも確かです。
半島の太平洋側は国内屈指の電照菊生産地で、植物園の温室のようなグラスハウス(開花時期を遅らせるため、夜も光を当て日照時間を長くする)が軒を連ねています。
これからの季節、立ち並ぶハウスが夜遅くまで光を放つ情景は地域の名物とされます。
それだけ電気を使う地なので、発電所建設に文句を言う人はいないにしても、景観を楽しみに訪れた者には目についてしまいます。
それは地元の「景観保持よりも大切」との判断ですから、その姿を受け入れるしかありません。
農地が広がる海岸線にポツリと火力発電所があっても役に立たないわけで、燃料受け入れ用の港湾施設やパイプラインがあります。
タンカーがいたのでは施設修繕の溶接も危険でできないのでしょう、空いた時間を狙った整備作業の音や声があちこちから聞こえてきます。
また、油は流れてないのに映画などで目にする「シュー!」というガス抜き(?)が継続されています。
油への引火を防ぐ対策と考えると、パイプラインの内側などは油だらけでしょうし、油を取り扱う施設では常に行われているのかも知れません。
恋路が浜(Map)
ここは伊良湖岬から太平洋側に続く砂浜で、名の由来としては、江戸時代の和歌に「恋路ヶ浦」と歌われたことや、「高貴な身分の男女が許されぬ恋がゆえに都を追放されこの地に暮らした」いいつたえにちなむとされます。
そんな響きの良さからか「恋人の聖地」とされ、近ごろはやりの鍵をかける施設があるそうです(未見)。
田原市のホームページでは、恋路ヶ浜は4つのジャンルで「日本の百選」に選ばれると自慢げです。
海辺を通るサイクリングロードは「日本の道百選」、砂浜は「日本の渚百選」、そこに続く松林が「日本の白砂青松百選」、潮騒が「日本の音風景百選」に、それぞれ選ばれたそうです。
上写真は日出の石門付近の斜面で、強い風に波しぶきが舞い上がる様子(左側で分かる程度か)。
島崎藤村の詩「椰子の実」が、この地を訪れた柳田國男の話を元に書かれたことは有名ですが、実際の実験で石垣島から流したヤシの実がこの浜に流れ着いたそうです。
キレイな砂浜ですし、太平洋の広さと荒波を体感できるロケーションなので、人気があることは十分理解できます。
ですが、名前の由来から考えると「不倫の聖地」(隠れ家的場所)とした方が納得しやすい気もします……
宿の夕食は「海鮮バイキング」で、地元で捕れた魚の刺身が4〜5種並んでいます(鯛の仲間もいた)。
出荷できないサイズだとしてもその新鮮さには「うわっ、プリップリ!」の舌鼓で「瀬戸内海を思い出す〜!」と、久しぶりに海産物本来のおいしさを堪能しました。
三河湾の名物らしい「大アサリ」(巨大アサリの表記も)は登場しませんが、普通サイズでも焼いておいしいし、赤だし(名古屋周辺は赤みそのみそ汁)にアサリのダシはベストマッチで、海の幸には大満足させてもらいました。
地産地消にこそ、美味しさとありがたみが感じられます(写真はホテルの部屋から)。
地質学でいわれる中央構造線(日本を沈没させる規模を持つ? 大断層。→リンク先は映画『大鹿村騒動記』の舞台である「大鹿村中央構造線博物館」)沿いに点在する山の周辺に堆積した砂地が伸びる半島のため、地味(ちみ)が乏しく(土地がやせている)水源が無かったため苦労が耐えなかった土地ですが、豊川用水整備のおかげで「豊饒の地」となりました。
気候は温暖ですし、海の幸にも恵まれていますから、東海地震が永遠に起こらなければ楽園のような土地に思えました。
地震は日本全土で起こりますから、最大限の対策をして生活していくしか無いことだけは確かです(台風も気をつけなければ)……
追記
途中で脱線できなかったのでここに追加しますが、映画『大鹿村騒動記』で故原田芳雄が営む「ディア・イーター」(シカを食べる人)の看板を掲げる食堂の建物が、実際の食堂としてオープンしたそうです。
そのシャレに是非乗っかりたい! ところです。
【愛知県】
ひと月遅れの夏休みが取れたので、前回がいつか忘れてしまうほど久しぶりに「旅の続き」が実現しました。目的は、紀伊半島の志摩(鳥羽)から「海道をつなぐ」ことになります。
豊橋を拠点に、渥美半島、神島、佐久島を歩く二泊三日(9月14日〜16日)の三河湾周遊ですが、はしゃいで写真を多く撮ったので、3部構成にする予定でいます。
より大きな地図で 東海の道 を表示
田原城跡(Map)
豊橋駅から車で渥美半島を目指すと、臨海の工場地帯の先に蔵王山が見え、その奧には同様に急峻な斜面を持つ山が続きます。
渥美半島には勝手に、なだらかな丘陵地のイメージを持っていましたが、見聞の大切さを思い知らされるスタートとなります。
その山のふもとに豊橋鉄道渥美線終点の三河田原駅と田原市中心部があります。
田原城は、1480年室町時代の武将戸田宗光(八幡太郎義家の子、義隆を祖とする森氏支流の源氏)により築城されます。
応仁の乱(1467〜77年:京都を焼き尽くし、戦国時代突入のきっかけとなる室町幕府管領家と有力守護大名の争い)で、西軍として活動するなど勢力を強めます。
戦国時代になると、北からは松平広忠(徳川家康の父)、東からは今川義元など、有力武将から圧力受けたため、1545年戸田康光は娘を松平広忠の側室に差し出し従いますが、一方で今川家にも従属の姿勢を示します。
岡崎城松平家は、1547年織田信秀(信長の父)に攻め込まれた際、駿府城(現静岡)今川義元に援軍を求めますが、条件に人質を要求され、6歳の竹千代(後の家康)を送ることとします。
竹千代を駿府まで送る任を負った戸田康光は何を思ったか、松平家・今川家と敵対していた尾張の織田信秀のもとに竹千代を届け、離反します。
後の家康の言葉に「竹千代を1千貫で売り払った」とあるそうですし、怒り心頭の今川義元に田原戸田家は滅ぼされます。
竹千代は後に、今川軍に捕らえられた織田信広(信長の兄だが側室の子)との人質交換により、今川の元に戻されます。
戦国の世を生き延びるための選択なのか、織田家との密約が家康の言うように「金」であったとしたら、滅びて当然という気もしますが、戸田家としては松平家・今川家どちらも選択したくなかったとすれば、どの道先が無かったようにも思えます。
上写真は、本丸付近にある巴江(はこう)神社に併設される富多満瑠稲荷(フタマル=富がたまる)で、地理的にも近く有名な豊川稲荷(未訪問)の流れか、付近は鳥居を連ねたお稲荷様が散見される土地柄のようです。
右は、城門近くにある福祉学校の校舎。
渥美半島(Map)
上述の戦国時代、渥美半島の付け根付近はかろうじて陸続きのような湿地帯で、築城には向いても農耕には向かない地域でした。
現在では大規模な埋め立てが行われ、トヨタ自動車の工場や搬出港となり、大型の輸送船が出入りする海外展開拠点としてにぎわう様子が、蔵王山展望台から見ることができます。
温暖な気候であるこの一帯では稲の収穫が進んでいるも、紀伊半島で土砂崩れのせき止め湖ができた台風12号の影響でしょうか、稲はみな風で倒されています。
訪問直後に列島縦断する台風15号が襲来しますが、大丈夫だったろうか?
ここは地図で目に入った大きな貯水池「芦ヶ池」付近で、そのほとりには、農業をテーマとする体験型の公園「サンテパルクたはら(田原市芦ヶ池農業公園)」があります。
「サラダ館(農林漁業体験実習館)」「体験農場」「サンテファーム(市民農園)」等、花や作物を通じて農業を体験できる施設で、豊かな地だから実現できたテーマパークの印象があります。
芦ヶ池水門付近には「豊川用水」の看板があり、学年は思い出せなくとも「教科書で習った」記憶がよみがえってきます。
豊川用水(とよがわ)は、愛知県豊橋市周辺の東三河地域、渥美半島や、静岡県湖西市に整備された用水路で、豊川および天竜川水系から取水する大規模な農業水利事業です。
最初の発案は田原市出身者によるそうで、インドネシア視察で目にした農業水利事業から、豊川上流にダムを建設し、そこから東三河地方に導水しようと考え、地元や国に働きかけて実現にこぎつけます。
1949年(昭和24年)国営事業として始まり、水道用水や工業用水への供給を含めて1968年に完成します。
当初の計画からかなり膨らんだと思われる農業用水確保事業は、山地のダムだけなく、海に突き出た半島側の貯水池からも水を供給することで、無理なコストをかけずに農地を潤しています。
東京近郊では玉川上水や近所の二ヶ領用水等、当初の使命を終えた遺構的な存在が多いものの、現役として大地を潤し活気ある農地を支える存在を目にすれば、教科書では教えられない実感として学ぶことができます。
平地に広がる田畑が放つ豊饒の輝きは、豊川用水というキーワードと共に心に刻まれました。
上写真は半島先端近くにある「初立池(はったちいけ)」で、この時の水位は低く展望台の足が露出しています。
この施設を含めて一帯にはかなり力が入れられており、実用+園地利用を目指そうとする姿勢は間違いではないと思いますが、そんなにお金をかける場所なの? という気もします。
豊かな自治体のおごりが見えた気がしますし、無駄なくして文化は生まれない、は確かでも、そんな「すき」が人間らしいと言えるのかも知れません……
渥美火力発電所(Map)
渥美半島先端部の海岸線は鉤(かぎ)状になっており、先端の伊良湖岬(いらご)とその返し部分に当たる立馬崎に灯台があり、後者付近に発電所の紅白煙突が2本そびえています。
現代農業では水はもちろん電気も必要ですから、発電所が必要なことも確かです。
半島の太平洋側は国内屈指の電照菊生産地で、植物園の温室のようなグラスハウス(開花時期を遅らせるため、夜も光を当て日照時間を長くする)が軒を連ねています。
これからの季節、立ち並ぶハウスが夜遅くまで光を放つ情景は地域の名物とされます。
それだけ電気を使う地なので、発電所建設に文句を言う人はいないにしても、景観を楽しみに訪れた者には目についてしまいます。
それは地元の「景観保持よりも大切」との判断ですから、その姿を受け入れるしかありません。
農地が広がる海岸線にポツリと火力発電所があっても役に立たないわけで、燃料受け入れ用の港湾施設やパイプラインがあります。
タンカーがいたのでは施設修繕の溶接も危険でできないのでしょう、空いた時間を狙った整備作業の音や声があちこちから聞こえてきます。
また、油は流れてないのに映画などで目にする「シュー!」というガス抜き(?)が継続されています。
油への引火を防ぐ対策と考えると、パイプラインの内側などは油だらけでしょうし、油を取り扱う施設では常に行われているのかも知れません。
恋路が浜(Map)
ここは伊良湖岬から太平洋側に続く砂浜で、名の由来としては、江戸時代の和歌に「恋路ヶ浦」と歌われたことや、「高貴な身分の男女が許されぬ恋がゆえに都を追放されこの地に暮らした」いいつたえにちなむとされます。
そんな響きの良さからか「恋人の聖地」とされ、近ごろはやりの鍵をかける施設があるそうです(未見)。
田原市のホームページでは、恋路ヶ浜は4つのジャンルで「日本の百選」に選ばれると自慢げです。
海辺を通るサイクリングロードは「日本の道百選」、砂浜は「日本の渚百選」、そこに続く松林が「日本の白砂青松百選」、潮騒が「日本の音風景百選」に、それぞれ選ばれたそうです。
上写真は日出の石門付近の斜面で、強い風に波しぶきが舞い上がる様子(左側で分かる程度か)。
島崎藤村の詩「椰子の実」が、この地を訪れた柳田國男の話を元に書かれたことは有名ですが、実際の実験で石垣島から流したヤシの実がこの浜に流れ着いたそうです。
キレイな砂浜ですし、太平洋の広さと荒波を体感できるロケーションなので、人気があることは十分理解できます。
ですが、名前の由来から考えると「不倫の聖地」(隠れ家的場所)とした方が納得しやすい気もします……
宿の夕食は「海鮮バイキング」で、地元で捕れた魚の刺身が4〜5種並んでいます(鯛の仲間もいた)。
出荷できないサイズだとしてもその新鮮さには「うわっ、プリップリ!」の舌鼓で「瀬戸内海を思い出す〜!」と、久しぶりに海産物本来のおいしさを堪能しました。
三河湾の名物らしい「大アサリ」(巨大アサリの表記も)は登場しませんが、普通サイズでも焼いておいしいし、赤だし(名古屋周辺は赤みそのみそ汁)にアサリのダシはベストマッチで、海の幸には大満足させてもらいました。
地産地消にこそ、美味しさとありがたみが感じられます(写真はホテルの部屋から)。
地質学でいわれる中央構造線(日本を沈没させる規模を持つ? 大断層。→リンク先は映画『大鹿村騒動記』の舞台である「大鹿村中央構造線博物館」)沿いに点在する山の周辺に堆積した砂地が伸びる半島のため、地味(ちみ)が乏しく(土地がやせている)水源が無かったため苦労が耐えなかった土地ですが、豊川用水整備のおかげで「豊饒の地」となりました。
気候は温暖ですし、海の幸にも恵まれていますから、東海地震が永遠に起こらなければ楽園のような土地に思えました。
地震は日本全土で起こりますから、最大限の対策をして生活していくしか無いことだけは確かです(台風も気をつけなければ)……
追記
途中で脱線できなかったのでここに追加しますが、映画『大鹿村騒動記』で故原田芳雄が営む「ディア・イーター」(シカを食べる人)の看板を掲げる食堂の建物が、実際の食堂としてオープンしたそうです。
そのシャレに是非乗っかりたい! ところです。
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