2011年9月30日金曜日

「その火を飛び越して来い」──神島

 近ごろ勤務先の六本木界隈は、こんなにも外国人が多かったっけ? と思うほどで、原発事故で自国に引き上げていた人たちが、半年経過をメドに一気に戻って来たようです。
 放射線パニックは、海外からの目にもひと段落と判断されたのでしょう。
 もちろん完全収束にはまだ時間はかかるにしても、海外の国の判断が見て取れる事例として、明るい兆しと受け止めましょう。


9月15日(木)
【愛知県】【三重県】


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伊良湖(いらご)岬(Map)

 神島行きの船は10:00発なので、近くに泊まれば出航前の船着き場から、ブラッと散歩できる距離に伊良湖岬灯台があります。
 山から下る道があるので、以前灯台は山上にあったか(山頂には現在、航路信号所のドデカイ建造物があります)、現在の位置にあっても山越えが必要だったかも知れません。
 現在では、海岸沿いに遊歩道が整備されており、以前の面影は感じられません。
 右写真が伊良湖岬灯台で、これから向かう神島が左下に見えます。

 前日も、海岸線から立ち上がる急峻な斜面の「キツそう!」な印象に、「あそこ登るの!?」と地図を確かめたりしました。
 この旅のメインだし、飲み物だけはちゃんと持って船に乗り込む「どえりゃあ暑い朝」でした。


小説『潮騒』

 今回の旅は、一冊の小説を手にした時点から始まります。
 ここ神島は三島由紀夫『潮騒』の舞台と知り、未読の印象から慌てて本屋に駆け込みました。
 執筆された1956年(昭和31年)という時代に、神話を構築しようとする腐心を端々に感じながら読み進みます。
 骨格のしっかりとした「純粋さにこそ人間本来の力が秘められる」昭和時代の神話として成立させたことや、民俗学的下地あってこそ成り立つ面にとても興味を引かれ、あっという間に読み切りました。

 よく「本は若いうちに読め」とされますが(若いうちに見聞を広めろの意でしょう)、この本を10〜20代に読んだとしても、背景に脈々と描かれる孤島の閉ざされた社会生活での慣習や、そこで暮らす人々の「島と外の世界」に対する考え方や世界観というものは読み取れなかったのではあるまいか。
 わたしも、旅の意味が変わり始めた30代後半頃から、ようやく民俗学や文化人類学等への関心を持って歩くようになったので、本作の背景が理解できるようになるのは、それ以降という気がします。
 それはもちろん、若いうちに読むなと言うことではなく、個々のさまざまな経験の度合い(年代)により感じ方が変わると考えれば、いつの年代でも愛読書を携えておく必要性と共に、「人生常に勉強」であることを再認識させられたような気がします。
 そんな認識から「人生、時間はいくらあっても足りない」に込められる意味が理解できるような気持ちにさせられます……


八代神社(Map)

 三島は「都会の影響を受けず、風光明媚で、経済的にもやや富かな漁村」を探し、紹介された神島を「万葉集や古典文学に通じる由緒がある」ことから舞台に選んだとされ、実際に現地で取材をしました。
 古くは歌島(かじま)、亀島、甕(かめ)島と呼ばれ、神が支配する島と信じられためか、神社には古墳時代〜室町時代の神宝が秘蔵されるそうです。
 後年には鳥羽藩の流刑地とされ「志摩八丈」と呼ばれます。八丈とは八丈島のことで、平安時代末期に源為朝が流刑された地名が広まったようです。

 距離的には愛知県伊良湖岬に近いものの、三重県鳥羽市に属するので、以前は鳥羽港からの船便しかありませんでした。現在鳥羽市営定期船が1日4便あり、時間はかかるも(1時間弱)ライフラインなので往復1,420円とされます。
 一方、観光客の多い伊良湖岬側からは、鳥羽までのフェリーはあっても目の前の神島に渡る船がないことに、不満が多かったようです。
 そんな要望に登場したのが神島観光船(1990年代)ですが、定期船とは違うためか25分程度の距離でも往復2,500円もします。
 どうしても行きたい人を相手にしている、の言い分はわかりますが、これは完全に「観光地価格」です。
 本社は神島にあるので島民の起業と思われますが、狙い的中の人気です。主力は釣り客でも、伊良湖岬付近の国民休暇村から「少しは運動しよう」という年配客を呼び寄せています。

 おしゃべりな船長で、話しに夢中でロープを外し忘れて出航するようなオッサンですから、島の港で「八代神社の階段が見えるだろ、還暦過ぎても祭りではオレも駆け上るよ!」とぶちあげても、その真偽の程は分かりません。
 でも、そんな行事があることはうかがい知りました。


 200段を越える石段上に構える社で(下るのが怖いくらい石段の幅が狭く急)、息を整え目にした光景から想起したのは「伊勢神宮に近い土地柄だから?」と感じた答志島「美多羅志神社」です。
 参拝所に玉石が敷かれる様は美多羅志神社に同じく、構造物全体(土台を含め)から伝わる歴史こそが、島民が守ってきた文化の現れに感じられます。
 神島は「伊勢神宮文化圏」の最遠地に思えますし、答志島を含めた島々を「神々の島」として支配もしくは特別に庇護していたのかも知れません(全国に広がる伊勢信仰とは性格が異なる印象)。
 島(自然)と神社と島民が一体となることで生まれた文化と思える社には、威厳と包容力が感じられ、上ってきた者を静かに受け止めてくれますし、裏にも物資運搬用の道路はありませんから、社を維持管理する側にも感心することになります。

 名称「神の島」の由緒は不明でも、神様と共に生きてきたと思えるような島民の「凜」とした姿は現在も変わりません。
 それを踏まえると、三島の選択眼が正しかったというよりは、島の生き様は正しきことと三島が証明してくれたとさえ感じられます。


神島灯台(Map)

 神島と伊良湖岬間の伊良湖水道は日本三海門の一つとされ、「阿波の鳴門か音戸の瀬戸か伊良湖度合が恐ろしや」と船頭歌に登場する海の難所でした。
 観察してみると、潮の満ち引きによる流れはその時点では一方的なので分かりませんが、島影で渦巻くような白波周辺には漁船が近寄らない気配からは、潮の流れを警戒している様子がうかがえます。

 この灯台は、江戸への物資輸送のため航路が開設された江戸時代に、御燈明堂が作られたのが始まりとされます。
 一時、菅島灯台に役目を譲るも、明治時代に戦艦が暗礁に座礁したことから再度重要視されます(軍隊を守るために使われたお金が、後の礎になりました)。

 灯台手前の歩道脇に、地学をかじった者には目が止まってしまう「楽しげな?」岩肌が露出しています。
 チャート(放散虫等の殻や骨が海底に堆積した岩石)と思われる地層が、グニャグニャに折れ曲がっています。チャートは海底の堆積物から形成されるので、太古の昔は太平洋の海底だったことになります。
 これは、前回ふれた中央構造線(東日本大震災を引き起こしたプレート境界的規模の断層)に押しつけられ折れ曲がったと考えられるので、今回の大地震の震源付近でも現在こんな様子が見られるのかも知れません。

 そこで思い出したのが先斗町の彼(地質の専門家)の、渥美半島〜志摩半島を結ぶ伊勢湾大橋の予備調査で、神島に橋脚を立てるための地質調査するも「巨大断層付近はズタズタだから、作るのは相当大変」の話しです。
 上写真を見れば納得で、同じように地質の複雑な瀬戸大橋は全部自前のコンクリート橋脚を作っていますから、橋ばかりかトンネルもかなり難しそうな印象を受けました。
 ましてやフェリーも閑古鳥では(観光バスは多い)、この地でのプロジェクトXは、ペイできないように思えます。

 小説でも重要な舞台となるこの灯台も、理由は違うように思われますが恋路が浜のように「恋人の聖地」とされ、写真右の塀にプレートがあります。
 それは、NPO法人地域活性化支援センター「恋人の聖地プロジェクト」で選定されたデートスポットだそうですが、NPOだけにスポンサーには逆らえないのでしょう、このプレートには「桂由美(ブライダルデザイナー)」の名が刻まれています。
 その流れか、右写真左下には「カメラ台」(ここにカメラを置いてセルフターマーで撮りなさい)がありますが、この島では若いアベックすら見かけません。
 島内の周回遊歩道には船に同乗した観光と思われる若い娘たちの姿はなく、青春時代に小説を読んだと思われる年配者ばかりがせっせと登ってきます。
 この島で紡がれた神話は、もはや若者には受け入れられない「昔話」とされるかも知れませんが、「この先にこそ聖地がある」の思いが揺るがない、年老いたロマンティストたち(わたしを含め)の歩みは止まりません……


監的哨(かんてきしょう)跡(Map)

 監的哨は日本軍が大砲性能テストの着弾観測所とした建造物で、海側に見晴らしのある場所に作られ、紀伊半島側の菅島(未訪問)にもあるらしく、それは渥美半島から伊勢神宮方面に放たれたことになります。
 右翼の旗頭とされた三島に何か思いがあったのかと思うも、執筆当時は政治的活動はしてなかったようですし、一時右翼の脅しにおびえていたとの記述を目にします。


 訪問時、周囲はあずまやなどの工事中で(観光地としての整備)、建物への立ち入りは禁止されていました。
 建物はいかにも軍の施設らしく、朽ちた部分があるとしても必要最小限の設備に見えます。
 軍が去った戦後、集落の反対側にあるコンクリート造りの小屋は、島民の避難所及び物置とされたのでしょう。

 小説や映画を知らずとも、「その火を飛び越して来い」というインパクトに接する機会はあったかと思いますが、ここがその舞台とされた場所になります。
 ここで直前に読んだ小説の世界が広がってきます(この時点では映画は未見)……
 

 それは、嵐で休漁となる日の待ち合わせ場所とした監的哨に先にやってきた青年が、暖を取るためにたき火を起こすも居眠りしてしまいます。
 彼が寝ている間にやってきた娘が、服を乾かそうと裸でいる時に青年が目を覚ます、という場面。
 相思相愛の仲であっても、「火を飛び越す」ことを娘に求めさせ、青年に実行させる作者は、「禊ぎ(みそぎ:身の穢(けが)れを清めること)」を求めたのでしょう。
 古神道で「水は身を清め、火は精神を清める」とされることの表現のようですが、明示せずとも理解できるであろうとするさじ加減は見事ですし、その後の「嫁入り前の娘がそんなことしたらいかんのや…… 私、あんたの嫁さんになることに決めたもの」のくだりは、儒教の教えが見え隠れする当時の日本人の倫理意識として、とても共感できる行動に映ったことでしょう。
(上写真は石灰岩が露出したカルスト地形)

 当時(昭和)の意識では美しいと感じられたものが、現代の若者たちには「何でここが聖地なの?」「純潔って何?」と受け止められると思うと、ここは古い美意識を持つジジ・ババの巡礼所とされても反論できない気がしてきます……(もちろん恋人の聖地に選ばれていません)

 小説では「女の性(sexとさが)」については詳細な描写があるも、「男の性」にはふれようともしません(男は黙って…の時代ではあっても)。
 そこにふれた途端に、緻密に築き上げてきた論理構造が破たんしてしまう危機感を抱いていたように思えます。
 三島自身の「性癖隠し(男色?)」であるにせよ、自信の無さがうかがえる印象があります(著書に共通しているのだろうか?)。

 小さな島にしては驚くほど道案内がきちっとした観光地なので、迷うことはありませんし島の自慢なのでしょう、『潮騒』2度目の映画化である、吉永小百合・浜田光夫主演(1964年 森永健次郎監督)のロケ写真をはめ込んだ看板があちこちに立っています(この地でロケした)。
 それは観なきゃいかんだろうと、帰ってレンタル店を探すも「山口百恵のしかありません」に冷や汗し、何とかTSUTAYA渋谷店で見つけましたが、2008年発売のDVDでももう廃盤扱いなんですって……

 もちろん吉永さんはたまらなく可愛いのですが、小説発表から8年後の1964年作品なので、三島が接した風景に近い情景を見ることができます(山火事でもあったのか、現在と比べるとはげ山的な印象を受けた)。

 これはわたしの勝手な意見ですが、神聖さを目指した原作を映像化するには、神妙さではなく、当時の日活青春路線を象徴するような「屈託のない明るさ」(未来は明るいと信じて生きる若者の希望に満ちた空気)こそがベストマッチではないかと、この映画を観て感じさせられます。
 未見ですが、山口百恵版には明るさの裏に影がありそうだし、堀ちえみ版は一番似合いそうな気がするも、大映ドラマ的な大げさな表現は違うだろうと思ったりします。


 狭い集落に密集した家の門前には、上写真のようなしめ飾りが時節に関係なく飾られています。
 この家は「笑門」ですが、どう読んでいいのか分からない文字列(と言うかデザイン)の飾りがあります。
 基本はどうも「蘇民将来の子孫(そみんしょうらいのしそん)」という、厄除けが由来のようです。
 あまりにも飛躍する伝説なので略しますが、「蘇民将来」とは「素戔鳴尊(スサノヲノミコト):ヤマタノオロチを退治」だそうですから、神話をあるがままに受け入れている土地柄になります。

 執筆にあたり三島が求めていた生活の様が、現在にも継承されている事に驚きを感じる面もありますが、いくら文明の波が押し寄せようとも、孤島という環境に変わりはないという現実なのでしょう。

 現在の東京でも目にする茅の輪くぐりとは、上写真の門前飾りの「茅」を束ね「巻」かれたことから、「茅巻(ちまき)」とされ、京都祇園祭で「厄除けチマキ守り」とされようになり、神社での疫除け風習となったそうです。


神島港(Map)


 小さいながらも活気のある漁港で、小説にも登場したタコ壺を使用したタコ漁が現在も盛んなようです(三島の舞台選定条件の「経済的にもやや富かな漁村」が現在も満たされている印象)。
 漁期は冬場のようなので、食堂等の張り紙にもまだその表記も見られません。
 関西での見聞から「明石のタコ(タコフェリー運行休止になりました)は流れの速い海だからおいしい」とすり込まれたことからも、流れが渦を巻くここ伊良湖水道のタコもきっとおいしいことでしょう……(立地からも、この島はとてもいい漁場と思われます)


 紀伊半島で土砂崩れのせき止め湖を作った台風12号で流出した木を集めたのだろうか、岸壁の一画に流木が積まれています(紀伊半島に近い場所柄)。
 帰りの船でも急に減速する状況で、おしゃべりの船長が「流木を巻き込むとスクリューがやられる」と、説明してくれます。
 訪問直後の台風15号の際、名古屋では100万人単位の非難指示等がありましたから、この山が一段と高くなっているのかも知れませんが、避けては通れない影響ではあります……

 三島の舞台選定条件とされた「都会の影響を受けず、風光明媚で、経済的にもやや富かな漁村」は、現在も当時の姿を残しているばかりか、神の庇護を受けているかのように明朗な人々が生活する島であり続けています。
 答志島にも通じる「豊かな笑顔」は、神ばかりでなく、豊かな海の幸からもたらされるのでしょう。
 伊勢神宮に近い特別な地であるにせよ、名古屋近郊にこんなにも「豊かな島(総合的の意)」があったことに驚かされましたし、是非ともじっくりと歩いて欲しい島々です。

 沖縄の宮古島沿岸にも「神島」があり、前回自分の怠慢で船に乗り遅れ行けなかったことが思い出され、必ず行くぞ! と決意を新たにします(「そこ工事したら、神様がいなくなっちゃう」という神の棲む島で、沖縄方面で後ろ髪を引かれる2つの島のひとつ)。

 とても楽しかったし、気合いを入れて書いたので、長くなりました……


 追記
 TVでも取り上げられていますが、スパリゾートハワイアンズ(旧常磐ハワイアンセンター)が一部オープンし、フラガールたちもホームグラウンドに戻りました。
 すっかり復興のシンボル的な存在となりましたが、それは彼女たちの宣伝行脚のたまものです。
 写真に撮った方々の顔をTVで見かければ、「あの人いた」と身近に感じられることがとても大きな宣伝効果なわけで、盛り立てに行きたいところなんですが、ちょっと遠いのでエールだけ送ります……

2 件のコメント:

先斗町の彼 さんのコメント...

「先斗町の彼」です。

誤解のないように補足します。
「強度が足りない」から「建設できない」のではなく,これまで以上に十分な調査が必要と言うことです。
あの青函トンネルも大変複雑な地質でしたが,詳細な調査と当時の最高レベルの土木技術により完成しました。
大切なのは,必要十分な地質調査を行うことなのです。

mizu さんのコメント...

先斗町の彼へ

失礼しました、あたかも貴方の言葉のような表現になっていた点については、これを深く反省し、撤回させていただきました(修正しました)。

でも、だいぶ前と思うのによくそんな話しを思い出したものだと自分では感心しておるのですが……

豊橋ってもっと大きな町かと思っていました。